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伊東良徳の超乱読読書日記

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科学者が人間であること

2014-03-01 20:24:15 | 自然科学・工学系
 東日本大震災の経験から、人間が生き物であり自然の中にあるということを基本として科学者としてのあり方を変えていこうと論ずる本。
 これまでの科学者のありようを、著者は「震災の直後に多くの人の怒りを買ったのは、科学技術者が思わず漏らした『想定外』という言葉でした」「さまざまな危険を思い描いている時には、自然がすべて解明されているわけではないことはよくわかっているのに、特定の数字をきめて計算しているうちに、人間がすべてを設定できるという気分になり、その数字の中で考えるようになってしまうのです。その結果、自分は普通に振る舞っているつもりなのに傲慢になるわけです。それが多くの人を怒らせたのです。」(3~4ページ)と評価しています。
 これをどのように変えていくのかについて、著者は、従来の科学の方法論を「密画的」で客観的な「機械論的世界観」と評価し、これに「略画的」で主観的な「生命論的世界観」を対置しつつ、従来の方法論を捨てるのではなく、略画的な世界の存在を常に意識して「重ね描き」をする、科学ですべてを説明しようとするのではなく自分の日常と科学でわかったこととを重ね描きとして生きることの面白さを実感できればよいのだと思うことが重要だとしています。自然の中にあるという感覚についても、天然無垢の自然ではなく例えば桜(ソメイヨシノ)のように徹底的に手を入れられた人工物を自然の中に持ち込む日本文化の特徴を賞賛しています。著者の主張は、科学を否定するのではなく、日常感覚へのフィードバックや自然への畏敬を忘れずにいようというようなところと理解すべきでしょうか。
 著者は、著者の提唱する「重ね描き」の先達として宮沢賢治と南方熊楠を挙げています。かつて高木仁三郎さんが「グスコーブドリの伝記」のブドリを市民科学者の手本として挙げたのに、私は、飛行機から肥料を撒布したり火山を爆破して気候を変えようなどというブドリはむしろ原発推進側のメンタリティを持っているのではないかと疑問を持っていました。この本で著者は「自然はやさしくないし、人間がコントロールできるものでもないことを賢治は承知していたと思います。ですから肥料をまいた時には、おかしなことをするからオリザが倒れてしまったではないかと農民が抗議したという話があるのです」「最後の噴火のコントロールもそのためには犠牲になる人がいるわけで、自然の怖さを示しています」(172ページ)と説明しています。そういう読み方もできるのですね。それはブドリについてではなく賢治についてですが。
 あとがきで「あの大きな災害から二年半を経過した今、科学者が変わったようには見えません。震災直後は、原発事故のこともあり、科学者・技術者の中にある種の緊張が生まれ、変わろうという意識が見られたのですが、今や元通り、いや以前より先鋭化し、日常や思想などどこ吹く風という雰囲気になっています」(242ページ)とされているのが、著者の、そして多くの人にとっての実感でしょう。悲しいことですが。


中村桂子 岩波新書 2013年8月21日発行
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