syuの日記・気まま旅

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北条5代の菩提寺 早雲寺 湯本

2018-05-04 | 気まま旅
箱根駅伝と国道一号線
国道1号線を走るのは横浜駅近辺の青木橋から戸塚中継所付近と「大礒から箱根方面」(往路・復路どちらも)。

箱根駅伝は、大正9年、マラソンの父「金栗四三」らが、世界に通用するランナー育成したい思いからと云う。
大正6、日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。
読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレー、東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となったと云う。
東海道駅伝の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたという。
第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称で行われた。

                  箱根鉄道は、国道一号線に沿って。


「居神神社」
北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主「三浦荒次郎義意」が、永正15年の1518年、に自刃、その首が井神の森の古松にかぶりつき、そのまま
3年間通行人をにらみつけ、これを久野総世寺四世忠室存孝和尚が成仏させて祀ったという。
江戸期には、山角町・板橋村の鎮守社・明治43年大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併したと云う。

                           鳥居


祭神ー三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命 ・境内社ー水神社、金刀比羅神社、八幡神社、摩利支神社 が。

                           社殿




「古碑群」最も古いもので、鎌倉時代末期のものと云う。
文保・元享の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏乗の字句があって、これらの板碑が念仏供養のために建てられたもの。
五輪塔線刻碑二基と、左手の念仏塔、庚申塔など四基は、未指定で、近隣から移転。
形状等ー「古碑の種類 碑の高さ(cm)」
五輪塔線刻碑 三九,五・ 文保元年銘版碑 一三五,〇(文保元年(一三一七)二月二四日と刻まれる)・ 五輪塔線刻碑 五三,五
元享二年銘版碑 一二三,〇(元享二年(一三二二)一二月一四日と刻まれる)・ 五輪塔陽刻碑 四八,〇
(小田原市教育委員会掲示より)



「北条氏綱」 早雲の子 小田原北条二代目。
                    「勝って兜の緒を締めよ」の碑


「石垣山城・一夜城」
小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされる。
記録には、6月初旬に伊達政宗が訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付けで千利休が古田織部に宛てた書状には
「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されているという。

                小田原城天守閣と相模湾が望める。


「紹太寺」-入生田駅、黄檗宗の寺、山号長興山
小田原藩主稲葉正則が両親の為城下の旧山角町に建立。が安政年間の大火で焼失、1669年現在地に「稲葉一族や春日局の墓所になる」
天然記念物の樹齢320年枝垂れ桜が。

   箱根登山鉄道線「箱根湯本駅」小田原・板橋・風祭・入生田・箱根湯本の5駅


箱根湯本駅は、明治11年 - 軌道線・後の小田原市内線、が湯本へ乗り入れ。大正8年、 鉄道線湯本 - 強羅間開業に伴い箱根湯本駅が開業。
昭和10年、 鉄道線小田原駅乗り入れに伴い、用地転用のため軌道線停留所を廃止し、昭和25年、 小田急車両の乗り入れが開始。
昭和57年に、小田急の大型乗り入れ。



「早川」
早川水系は、源流域の芦ノ湖に注ぐ大涌谷ほか多くの沢と、芦ノ湖から流れる早川および須雲川などの支流から成る。
各支流は河床勾配が大変急、芦ノ湖が自然の調整池の役割を果たしている。

               早川ー二級河川 延長ー20.65km・面積ー80.59㎡


                       箱根郷土資料館


「北条早雲」 1432-1519 戦国武将の先駆け・小田原北条氏初代・京都伊勢氏説が有力と云う。
名は、長氏、新九郎・駿河国今川氏から「興国寺城・下田に近い」を貰い、伊豆国に乱入、堀越公方の子茶々丸殺害し、一国平定した。
後に「大森氏・小田原城」を奪い・三浦氏・新井城を滅ぼし「相模国」併合する。
大森氏攻撃は、贈り物をして城主「大森藤頼」の信用を得てから、早雲は、「伊豆国で鹿狩りをしたら、鹿が皆そちらへ逃げてしまったので、鹿を駆り
たてる「勢子」を入れたい」と頼み込んで「勢子」を小田原に送り、その勢子は、変装した兵であったと云う。
北条軍は、夜襲で知られているが、早雲の時代からであった。

                   農民への租税は「四公六民」の善政


「早雲寺」
早雲・遺命により北条家2代の北条氏綱が大永元年の1521年、箱根湯本に創建した北条家歴代の菩提所。

                          臨済宗大徳寺派の古刹。


「北条氏綱」 1486-1541 小田原北条二代目 北条五代の基礎を築いた。
鎌倉幕府の執権北条氏にちなみ改姓・扇谷上杉「朝興」を破り武蔵国を制圧。今川氏・里見氏を圧迫して領土拡張する。
下総国国府台で、足利義明を討つ。古河公方「足利晴氏」に娘を嫁がせる・鎌倉八幡宮再建。
諸国から商人が集まり大変な賑わいだったと云う。小田原名産「外郎・薬」発祥、広めた。「勝って兜の緒を締めよ」の言葉は有名。

「北条氏康」 1515-1571 三代目・北条家発展に導いた名将。
山内上杉氏武蔵国河越破り、古河公方を傀儡とし、関東南半を支配する。武田信玄、上杉謙信と抗争と同盟を繰り返す。税制改革・地検推進
北条重臣「北条綱成」の守る河越城が、囲まれ、氏康兵8千を率いて何度も援軍に向かうが、その都度わざわざ退却する。が、
敵が安心したゆるみを見て「夜襲」し連合軍を撃破し潰走させている。世に云う「河越の夜戦、日本夜戦の一つ」上杉氏は、頼りにならない武田信玄と同盟を結べ遺言し没している。

「北条氏政」 1538-90 四代目 下総国国府台で里見・太田連合軍を破る。北関東へ勢力拡大、上杉・武田同盟・断交繰り返す。
氏直に家督を譲るが実権を握る。父氏康は、氏政食事時「汁加減もわからぬようでは、北条家も終わりだ」と落涙した云う。山積みの麦を見て「すぐに
麦飯を作れ」と家臣に命じた、これを信玄が聞き「麦はこき、こなし、ほし、つきて食にするもの、すぐには食えん」と世間知らずを笑ったと云う。
氏政の首は、一条戻橋に晒された。

「北条氏直」 1562-91 五代目 幕引き
本能寺の変後、上野国にいた信長の重臣「滝川一益」を撃破し、信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡を占領する。甲斐国で家康と争うが講和し、娘「督姫」を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏した。高野山追放・後1万石で大阪に住むが30歳で没している。
妻と別れ際、早雲が武運祈った「勝栗」の半分渡し「一族で、世に出るものあれば渡してくれ」と頼んだと云う。

                           老木が


                            本堂


                          清閑な境内


                        早雲の墓石 5代の墓 


「今大路道三幻鑑之墓」 徳川二代将軍秀忠公侍医
                          寛永3年50歳で没


「北条幻庵」 1493-1589 北条早雲の三男・北条5代に仕えた一族の長老・幼少で僧籍、三井寺で修行
北条軍の一将で国府台の戦い・平井城攻めに参加している。また歌会を開く文化人でもあったと云う。作庭にも秀でていた。
97歳で没した。娘が嫁ぐ際、彼女に渡した「礼式心得・北条幻庵覚書」は、一級史料。

                       幻庵の庭園




                         惣門

                        早雲寺鐘楼


「弥坂湯」で知られた坂。
地元の湯場、2~3人がせいぜいの小さな温泉共同浴場。
箱根の旧東海道沿い、地元住民中心に愛されている。
弘法の湯と程近い。 中は木造作りで狭く、いかにも共同浴場の雰囲気で、浴槽は、共同湯らしく内湯のみ。
泉質は単純温泉で消毒のみ行っている模様。源泉温度は48.7度と高いがそんなに熱くないと云う。
場所が箱根中心街と離れていることもあり観光客があまり来ないので、ゆっくり入浴可能。



次回は、登山電車で強羅方面へ。