syuの日記・気まま旅

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独特な建物 伊東市役所

2018-03-17 | 気まま旅
平安・鎌倉時代
工藤氏の一族「工藤祐隆」家次)は、「伊豆国の大見・宇佐見・伊東」からなる久須見荘を所領。
出家し法名を寂心、久須美入道(久須見氏)と号した祐隆は、早世した嫡男・祐家の代わりに、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子を嫡子とし
伊東荘を与えて「祐継」と名乗らせた。
一方、早世した祐家の子・祐親を次男として河津荘を譲り、「河津氏」を名乗った。
曽我物語ー祐親は祐継を「異姓他人の継娘の子」と呼び、真名本ーでは、祐継は祐隆が継娘に産ませた子で、祐親の叔父であるとしている。

伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。9歳の嫡男・金石・(工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。
祐親は、河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。
「祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている」
金石は、元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻に、その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として
「平重盛」に仕え、祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
伊東祐親は、娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。(・・・・宇佐美祐茂)
所領の他に妻をも奪われた工藤祐経は憤り、伊東祐親親子の殺害を計画、安元2年の1176年、工藤祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因に。
                      伊東市役所と物見塚公園(伝伊東家館跡)


                          伊東祐親像




「源頼朝は」
1159年、平治の乱で父・義朝が敗死した事により、14歳で伊豆へ流罪、「伊東祐親」は、在地豪族としてその監視の任にあたっていた。
祐親が大番役として上洛している間に、頼朝と祐親の三女八重姫が通じ、千鶴という男子をもうける。
安元元年の1175年夏、千鶴が3歳になった時に祐親が帰郷して事を知り激怒、平家への聞こえを恐れ、千鶴を川底へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとした所を、
次男の伊東祐清が頼朝に知らせて北条時政の邸に逃がした。
のちに頼朝は時政の長女政子と結ばれ、北条氏が頼朝の後見として頼朝の挙兵に加わる事になる。(嫡男祐泰は河津、遺児が曽我兄弟)



新派和歌運動の一翼を担った
尾上柴舟(1876-1957)は、伊豆を訪れ、特に伊東との縁は深かった。
昭和初期には別荘をかまえ長期滞在した。

碑に刻まれた歌ー明治43年「創作」に「天城野火」として発表した中の一首。大正2年刊の歌集「日記の端より」の冒頭に、

      「つけすてし野火のけぶりのあかあかと みえゆくころぞ 山はかなしき」碑文




                   伊豆急の伊東トンネルが


「相模国」ー東海道に属し旧国名を「相州」とも云う。当時の東海道は三浦半島から千葉県房総半島へと続き、
行政の中心は、国府(小田原・海老名)など諸説あり。
10~11世紀は、争乱で、各地の有力の開発領主が成長し、1192年征夷大将軍「源頼朝」が開いた鎌倉幕府の有力御家人の直轄地とされていった。
その後、「関東管領を鎌倉」に置いた。1495年、北条氏が小田原を拠点に関東を支配した。



「相模灘」は、深さ1500mを超える「相模トラフ・舟状海盆)が連続し国府津・松田断層へ。地震活動は活発で1923年の関東大震災で北東の隆起と南西部は沈降した。が、大陸棚が発達し黒潮の分流が流れ込むので、カツオ・ブリ・マグロなどの好漁場である。
また入江が多い。早川、境川、酒匂川で砂浜海岸を。
            乙女の像







塩の古道 秋葉道と宇佐美海岸

2018-03-17 | 気まま旅
ー熱海ー来宮ー伊豆多賀ー網代ー「宇佐美」ー伊東(伊東線)伊東ー伊豆高原・・下田(伊豆急行)
無人駅「宇佐美駅」下車。
静岡県伊東市宇佐美・県の南東で市の北端、元田方郡宇佐美村。
海岸寄りに、国道135号線・海水浴場・住宅が密集、西の山側はミカン畑・江戸時代から、西に石など荷物の積み出し港と漁港と「秋葉道、中核的宿場」
で賑わった。
奈良・平安・室町時代まで「伊東祐隆(平家方)・後妻・娘(源氏)」娘方の三男「城主・宇佐美祐茂」の城下町。

伊東氏・伊東祐隆の後妻の娘の家系が嫡流となり、源頼朝方となっていた。それに対し、本来の嫡流だった伊東祐家の家系が庶流扱いとなり、平家方となり、宇佐美祐茂は、1180年の「石橋山合戦」から、源頼朝に従い、25功臣の1人に数えられている。
室町時代はじめ頃、宇佐美氏は足利直義の執事・上杉憲顕に従って、上杉憲顕は、後に「初代関東管領」となる。
越後・上野・武蔵・安房の守護となり、この関係で宇佐美氏の一部が越後へ移り、子孫に宇佐美定満らを輩出した。
宇佐美氏は北条早雲の頃まで当地を本拠としたようで、伊勢新九郎(北条早雲)は、1493年、堀越御所を襲って伊豆へ進出・この時、宇佐美貞興が堀越御所での戦いで戦死したという伝承が残っている。
追放された茶々丸は、失地回復を目指して抵抗し、工藤一族もこれに従い、工藤一族の長は狩野道一で、伊東氏や宇佐美氏も一緒に戦っている。
しかし、1495年には、伊東祐遠が伊勢方に寝返り、1498年には狩野城が陥落、(この間の宇佐美氏の動向は不明)

「宇佐美城」近くにある宇佐美氏の墓とされる石塔は、この時代まで・(この頃に宇佐美氏は当地を離れたと思われる)
後北条氏時代の宇佐美城は、主を失った城で、その後は、城番が置かれていたと云う。
残念ながら城跡に大学の寮が築かれた。堀や土塁などが良好に残っていたと云う。

                宇佐美海岸 正面に伊東の手石島が見える(熱海~伊東間)


             国道135号線に出る手前に、一里塚の巨樹の松が,(樹齢450年)


「秋葉信仰」
秋葉寺ー(しょうようじ)と読む、
昔の武将たちは、戦勝祈願・刀剣などを奉納するための旅に出ている。その目印が、常夜灯や一里塚を目指して旅に、
宇佐美は、その中核的な宿場と云う。海岸公園内に当時の常夜灯が残っている。

         秋葉道は、生活・政治・経済・文化の交易の道であった。


「塩の古道・秋葉、鳳来寺道」
江戸時代後期には、道者の通る街道が固定化したようで、掛川〜森〜三倉〜坂下〜秋葉山へ通じる街道は
「日傘で道に日が当たらぬ程の往来があったといい、俗謡に「森の横町なぜ日が照らぬ 秋葉道者の笠のかげ」と伝えられている。
道標や常夜灯は、いたる所に置かれ、これを目じるしにして旅人が通過していった。
本宮山越えの秋葉道は険しい山が続いたので難儀をしたことが、高山彦九郎の日記「甲午春旅」に記されている。

                 秋葉寺は、守護神、三尺坊大観現、火防の神。


遠信古道・秋葉街道で運ばれていたなが重要な産物の一つに「塩」。
海のない信州に持ち込まれる塩は、日本海からの「北塩」と、太平洋からの「南塩」があり、南塩ルート・遠州からの遠信古道、三河からの中馬街道の二つがあり、中馬街道の成立が戦国時代以降であるのに対して、遠信古道の誕生は古く先史時代と云う。
遠信古道は、遠州灘の相良から発して遠山地方を経て諏訪湖に続いて、南信濃村から出土する縄文時代の遺物からも、北は諏訪和田峠、南は東海地方との交通が、遠州からは塩、信州からは和田峠の黒耀石などが運ばれ、遠山谷を行き交っていたことが。
昭和17年まで、「秋葉寺の火祭り」の際には湯立て神楽が行われ、その湯に塩水が用いられていたという事実も、秋葉街道と塩との関わりの深さを物語っていると云う。
                    烏川橋(川は、山城の掘りの役割を)


                    烏川を正面にした「山城ー宇佐美城跡」


                         入山口が判らず。


                   烏川を利用した地形の山城であったと思われる。


                    森を囲んだように県道が、車多し。


              宇佐美は、下田方面と亀石峠・韮山方面の分岐点になる。




     海岸に「森米城句碑」あり、宇佐美出身 「とも尻の 梅へ出船の 大たき火」(門下生一同とある)






               江戸城石丁場があった。(折敷三文字の刻印)


          「烏川」流域は2.3kmの2級河川であるが上流は火山性の安山岩質で急勾配。