syuの日記・気まま旅

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銀座・数寄屋橋の思い出

2012-10-27 | syu散歩

有楽町は、茶人・大名の「織田有楽斎」の屋敷があった、明治に入り地名が「有楽町」になっている。駅前の「有楽町マリオン」に、日劇があった。
その横を川が流れ架かっていた橋が「数寄屋橋」である。

橋は、1629年江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられ「四間長三間」の木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。
見附の城門枡形は維新の際に撤去され、大正大震災 1923年後の復興計画によって、近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することとなった。
東京オリンピック以降、首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させ、外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消した。
終戦直後は、外人目当ての、女性と靴磨きの浮浪児、屋台が軒を連ねていた所であった。

「有楽町で逢いましょう」1957年 作詞佐伯孝夫、作曲吉田正 歌 フランク永井大流行。マリオンの前に碑がある。 


銀座と云えば、煉瓦発祥地、銀座に煉瓦街を計画し、イギリスの技術援助と技師を招き設計に当って、小菅で煉瓦を焼く許可も出ていたが住民の猛反対で中止された。
明治7年、銀座8丁目に一部完成したが、外人の設計で住む人がいなかったという。

数寄屋橋を舞台に展開する「君の名は」この辺りになる。

  

菊田一夫作 「君の名は」俳優佐田啓二・岸恵子の映画、連続ラジオ放送で大人気であった。

東京大空襲の夜。焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま一緒になった見知らぬ男女、氏家真知子と後宮春樹は助け合って戦火の中を逃げ惑う、命辛々「銀座・数寄屋橋」までたどり着く。
一夜が明けて二人はここでようやくお互いの無事を確認する。名を名乗らないまま、お互いに生きていたら半年後、それがだめならまた半年後にこの橋で会おうと約束し、
そのまま別れる。
やがて、2人は運命の渦に巻き込まれ、お互いに数寄屋橋で相手を待つも再会がかなわず、やっと会えた頃には真知子はすでに人妻となっていた。
しかし、夫との生活に悩む真知子、そんな彼女を気にかける春樹、2人をめぐる人々の間で、運命はさらなる展開を迎えていく。

マリオン



作詞菊田一夫、作曲古関裕而 「君の名は」の後宮春樹とアイヌの女の恋の歌 「黒百合」

           黒百合は 恋の花  愛する人に 捧げれば  二人はいつかは 結びつく  あ~あ~ あ- - - - -あ~~
           この花ニシパに あげようか  あたしはニシパが 大好きさ


           黒百合は 魔物だよ  花の香りが しみついて むすんだ二人は はなれない  あ~あ~ あ- - - - -あ~~
           あたしが死んだら ニシパもね  あたしはニシパが 大好きさ、、、、。

有楽町ガード下、終戦後の雰囲気が少し残っている。
      

日劇は1933-1981。日劇ウエスタンカーニバル 第1回 1958. ロカビリー3人男(平尾昌明 ミッキーカーチス 山下敬二郎氏)にて、日本ポップスの幕開けと云われた。
最終回が1981年で、2008年に「新宿コマ」の解体前に1日限りの再結成にて公演されたという。

ガード下、有楽町と新橋の間 公園側
    

「日比谷公園」は、江戸時代、大藩の上屋敷が置かれていた。幕末の時点では、北側には御用屋敷・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家、南側には三草藩丹羽家・
吹上藩有馬家・福知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩北条家の各上屋敷が存在した。
明治になると大名屋敷が廃されて更地となり、「日比谷ヶ原」と呼ばれた。
1871年、日比谷・霞が関の旧武家地一帯に陸軍操練所が設置され、1885年 日比谷練兵場と改称された。
その後、練兵場は、1888年青山火薬庫跡、現在の明治神宮外苑に移され、周囲に官庁街が整備されていった。

日比谷公園入口                        園内噴水
  

公園になり、早くも開園と同年に洋風喫茶店「松本楼」、和風喫茶店「三橋亭」、結婚式場「高柳亭」(現日比谷パレス)、洋風レストラン
「麒麟亭」
(現レストランなんぶ)、植木屋などが出店した。
日露戦争に勝利すると、献木が盛んとなり、樹木が充実した。1905年 音楽堂が竣工、1922年、野外音楽堂が完成した。

大正デモクラシーの中、東京市電賃上反対運動や普通選挙運動、シーメンス事件に対する第2次山本内閣弾劾国民大会など、民衆による社会運動の拠点ともなった。
日露講和条約に対する日比谷焼打事件など、暴動に発展するこ事件も多々起こった。

                                  旧日比谷公会堂
  


1950年、都知事安井誠一郎の要請により帝国ホテル内の植木屋芳梅園が日比谷公園に日比谷花壇が出店、1954年に大音楽堂、1957年に日比谷図書館が再建。
1971年 沖縄返還運動により松本楼が全焼、1973年 再建された。
1982年 児童園とプールが廃止されて健康運動広場となり、1983年、大・小音楽堂が建替えられた。
2011年 東京都から千代田区へ移管された日比谷図書館が、「日比谷図書文化館」として開館。

さんま収穫祭
  

公園内でイベントが、「おながわ秋刀魚収穫祭」園内にさんまの香ばしい匂いがした。

女川町が、瓦礫の受け入れをしてくれた東京都に対して感謝の気持ちを込めて、10月に日比谷公園にてさんま10tを配布。
テーマは「感謝」、まだまだ復興はこれから、でも女川が新しく生まれ変わるスタートとしてこのお祭りを開催していた。

園内 花壇
    

日比谷図書館文化ホールにて、「市川団十郎荒事の世界」鑑賞した。

団十郎の「弁慶」



「市川 團十」は、歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。
團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも
最も権威のある名とみなされている。
團十郎と関わりの深い名跡に市川海老蔵がある。前期の市川團十郎には團十郎 → 海老蔵と襲名する例が目立ち、後期にはこれが逆転して海老蔵 → 團十郎と襲名する例が目立つようになった。


10代の頃の海老蔵は幼少時から続く厳しい稽古と家柄・伝統の重責に耐え切れず反発を繰り返していたという。
そんな彼を立ち直らせたのは、偶然フィルムで見た「勧進帳」の弁慶をつとめる祖父十一代目市川團十郎の芸の美しさと勇姿に感動したからと語っている。
祖父を目標に掲げているが、その理想を追うがゆえに苦しみ、現在も、もがき続けているという。

いろいろな舞台衣裳も展示していた。

  

これで、東京駅、有楽町、日比谷公園終わります。