syuの日記・気まま旅

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富士川の戦い 平家越え

2012-10-21 | 気まま旅
駿河の海を見渡し、みかんの山を眺めつつ、歩いた。ここは、天下の東海道、五十三次、15番目の蒲原の宿。街は、由比と同じ細長く、格子戸が並ぶ町並み、
江戸時代と大きく変わっていないようだ。
蒲原宿は、山、川、海に囲まれた静岡市清水区蒲原である。駿河湾で最も奥深い海岸沿いに広がる東西約6.4kmの細長い町並み。
東海道五十三次の時代から、交通の要所として栄えた歴史のある地域。温暖な気候や豊かな海に恵まれて柑橘類、桜えびなど特産品で知られている。
海辺の町らしく明るく伸びやかで、確かな歴史の息吹が感じ、通りの人に聞くと左に見える山の頂上に「蒲原城」が有ったという。

「蒲原城」は、 山城、築城時期は、 南北朝期。築城ー 蒲原氏、その後、佐竹氏、北条氏等。遺構ー 曲輪、土塁、堀切、石積 等

歴史は、鎌倉期に「入江清定」の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗り、築城は南北朝期と推定されている。

1582年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城したと言われる。

蒲原城は、東海道の難所、由比ガ浜と薩捶峠を眼下に控え、「海道一の堅城」と呼ばれていた。
城山」と称される山は周囲と比べて飛びぬけて高い山、というわけではない。南側は急な崖、他の三方も深い谷に守られた堅固な要害であった。
甲相駿三国同盟が信玄の駿河侵攻によって破られた後、駿東一帯は武田氏と北条氏による激しい抗争が続きます。そんな中でも、北条の長老格であった
幻庵長綱の子ふたりが討ち死にしたこの蒲原城の攻防戦は最も激しかった戦いのひとつであったという。

蒲原宿から見える  蒲原山城跡の山  善福寺           



蒲原城跡の約650m東に標高約164mの御殿山山頂に、「狼煙場」と呼ばれてい 所がある。
蒲原城の東側は北方から山が張り出している、 そのため、「狼煙場」は、敵の動向を監視する目的で築かれ、蒲原城の外曲輪の働きをし ていたという。

宿場と山城跡                        御殿山向かいの山に狼煙場が     


蒲原宿は、町をあげて古い物を大事にしているという。小さい蒲原宿の名所の中には「旧五十嵐歯科医院」、「志田邸」「青山荘」などがありました。

旧東海道蒲原宿の街並み                 大正時代の歯科医院    


「志田邸」は、東海道蒲原宿でコメや醤油を扱っていた商家志田家の主屋。国の有形登録文化財に選定された。
東海道町民生活歴史館は、志田家に残る江戸時代からの醤油工場等を活用した資料館、江戸時代から昭和前期までの町民生活に関係したもの
展示している。

志田邸跡


山梨南アルプス駒ヶ岳、釜無川・笛吹川源流から南に流れ、ここ蒲原の駿河湾に注いでいる富士川河口「新富士川橋」を渡ります。
登呂の遺跡、駿河国府、今川氏の本拠地、家康の城下町、、。歴史の静岡市と別れ富士市の中心「吉原宿」に向かいます。

新富士川橋



「富士市」は、駿河トラフとその延長上の富士川河口断層帯に面しているため、プレート境界型の大地震「東海地震」の危険性が指摘されており、
国・県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている所。
江戸時代には東海道の宿場町の一つである「吉原宿」が存在したが、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。


富士川


「富士川の戦い」は、 治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始した。
この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と
勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」は伝えている。
しかし、実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれている。

士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かであろう。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。

頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。


この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。


浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが



次回は、吉原宿、田子の浦方面へ。