syuの日記・気まま旅

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大森貝塚~遺跡公園

2011-01-22 | syu散歩
大森海岸は、大田区の北東部、JR本線東の沖積地。江戸時代は東海道「品川宿」の広がりで宿も多く栄えた町。
特に東京湾を望む景勝地で、幕府の鷹狩場もあった。海岸沿いは御膳海苔場でも知られていた。
1892年頃は、海水浴場の保養地、別荘なども多く人気があった。昭和初期に埋め立てられ、海水の汚染が始まり消失していつた。


「日本考古学発祥の地」大森貝塚を発掘したエドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)は、アメリカ人の動物学者。
腕足類(わんそくるい )という生物の研究のため1877年(明治10)来日し、大森貝塚を発掘した。

大森駅ホームにある石塔                   
        


明治10年、来日した米国の生物学者E.S.モースは横浜に上陸し、新橋へ向かう汽車に乗り、大森駅を過ぎた辺りで丘に露出した貝層を発見した。
モースは貝塚の発掘に参加した経験があり、その貝層が古代の貝塚であることを予見した。西南戦争がようやく終盤を迎えた時期のことである。

7月に東京帝国大学の生物学教師となったモースは江ノ島で魚貝類の研究に着手、その後、東京への赴任を待ちかねたように大森貝塚の発掘調査を開始した。
この大森貝塚発掘が日本における考古学の発祥とされるが、江戸時代にも水戸光圀が古墳の発掘調査を命じていたり新井白石が古代中国の文献を検討しつつ
石鏃などの遺物を用いた研究考察をした例があり、厳密には日本最初の貝塚発掘というべきである。当時、貝塚の発掘調査は世界的にも希な先進的研究で、
日本の考古学は生物学者であるモースによっていきなり最先端の域に導かれた。
 
モースは大正14年に死去。その業績を顕彰すべく昭和4年に「大森貝塚」碑が建立された。ところが翌年「大森貝墟」碑が新たに建立され、
その後50年の永きに及ぶ論争の火種となった。
  

  

大森貝塚は、昭和30年国の史跡に指定。縄文時代後期から晩期に営まれた貝塚は、太古の海岸線の位置や人々の暮らしぶりを知る上で重要な意味を持っている。


大森貝塚遺跡公園                      時間によって蒸気が噴き出している
  


現在、大森貝塚に関する石碑は品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園内と、大田区側の大森駅近くの山王の2ヵ所にある。
前者は「大森貝塚」、後者は「大森貝墟」と書かれており、貝塚碑は(昭和4年)、貝墟碑は(昭和5年)に相次いで建てられた。

モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見の報告文書に所在地が大森村と記述されたことから、当初の発掘地点について長い間、
品川区説と大田区説の2つが存在した。しかし、その後(昭和59年)までの複数の調査により、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目
)の土地所有者に調査の補償金を支払った文書が発見されたこと、貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認された一方、貝墟碑周辺では見つからなかったことから、
現在ではモースが調査したのは品川区側であったことがわかっている。以上資料による。


蒸気の前に断層が保存されている。                  かつての大森海岸、今はJR線路
  

モース博士生誕の地アメリカメイン州ポートランド市と品川区は、姉妹都市提携を結んだのを記念して、
昭和59年整備し、60年に「大森貝塚遺跡庭園」として開園、平成8年敷地を広げ現在に。


モース像                          貝塚の断層
  


                   





次回は鹿嶋神社に続きます。