syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

北条5代の菩提寺 早雲寺 湯本

2018-05-04 | 気まま旅
箱根駅伝と国道一号線
国道1号線を走るのは横浜駅近辺の青木橋から戸塚中継所付近と「大礒から箱根方面」(往路・復路どちらも)。

箱根駅伝は、大正9年、マラソンの父「金栗四三」らが、世界に通用するランナー育成したい思いからと云う。
大正6、日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。
読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレー、東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となったと云う。
東海道駅伝の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたという。
第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称で行われた。

                  箱根鉄道は、国道一号線に沿って。


「居神神社」
北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主「三浦荒次郎義意」が、永正15年の1518年、に自刃、その首が井神の森の古松にかぶりつき、そのまま
3年間通行人をにらみつけ、これを久野総世寺四世忠室存孝和尚が成仏させて祀ったという。
江戸期には、山角町・板橋村の鎮守社・明治43年大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併したと云う。

                           鳥居


祭神ー三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命 ・境内社ー水神社、金刀比羅神社、八幡神社、摩利支神社 が。

                           社殿




「古碑群」最も古いもので、鎌倉時代末期のものと云う。
文保・元享の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏乗の字句があって、これらの板碑が念仏供養のために建てられたもの。
五輪塔線刻碑二基と、左手の念仏塔、庚申塔など四基は、未指定で、近隣から移転。
形状等ー「古碑の種類 碑の高さ(cm)」
五輪塔線刻碑 三九,五・ 文保元年銘版碑 一三五,〇(文保元年(一三一七)二月二四日と刻まれる)・ 五輪塔線刻碑 五三,五
元享二年銘版碑 一二三,〇(元享二年(一三二二)一二月一四日と刻まれる)・ 五輪塔陽刻碑 四八,〇
(小田原市教育委員会掲示より)



「北条氏綱」 早雲の子 小田原北条二代目。
                    「勝って兜の緒を締めよ」の碑


「石垣山城・一夜城」
小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされる。
記録には、6月初旬に伊達政宗が訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付けで千利休が古田織部に宛てた書状には
「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されているという。

                小田原城天守閣と相模湾が望める。


「紹太寺」-入生田駅、黄檗宗の寺、山号長興山
小田原藩主稲葉正則が両親の為城下の旧山角町に建立。が安政年間の大火で焼失、1669年現在地に「稲葉一族や春日局の墓所になる」
天然記念物の樹齢320年枝垂れ桜が。

   箱根登山鉄道線「箱根湯本駅」小田原・板橋・風祭・入生田・箱根湯本の5駅


箱根湯本駅は、明治11年 - 軌道線・後の小田原市内線、が湯本へ乗り入れ。大正8年、 鉄道線湯本 - 強羅間開業に伴い箱根湯本駅が開業。
昭和10年、 鉄道線小田原駅乗り入れに伴い、用地転用のため軌道線停留所を廃止し、昭和25年、 小田急車両の乗り入れが開始。
昭和57年に、小田急の大型乗り入れ。



「早川」
早川水系は、源流域の芦ノ湖に注ぐ大涌谷ほか多くの沢と、芦ノ湖から流れる早川および須雲川などの支流から成る。
各支流は河床勾配が大変急、芦ノ湖が自然の調整池の役割を果たしている。

               早川ー二級河川 延長ー20.65km・面積ー80.59㎡


                       箱根郷土資料館


「北条早雲」 1432-1519 戦国武将の先駆け・小田原北条氏初代・京都伊勢氏説が有力と云う。
名は、長氏、新九郎・駿河国今川氏から「興国寺城・下田に近い」を貰い、伊豆国に乱入、堀越公方の子茶々丸殺害し、一国平定した。
後に「大森氏・小田原城」を奪い・三浦氏・新井城を滅ぼし「相模国」併合する。
大森氏攻撃は、贈り物をして城主「大森藤頼」の信用を得てから、早雲は、「伊豆国で鹿狩りをしたら、鹿が皆そちらへ逃げてしまったので、鹿を駆り
たてる「勢子」を入れたい」と頼み込んで「勢子」を小田原に送り、その勢子は、変装した兵であったと云う。
北条軍は、夜襲で知られているが、早雲の時代からであった。

                   農民への租税は「四公六民」の善政


「早雲寺」
早雲・遺命により北条家2代の北条氏綱が大永元年の1521年、箱根湯本に創建した北条家歴代の菩提所。

                          臨済宗大徳寺派の古刹。


「北条氏綱」 1486-1541 小田原北条二代目 北条五代の基礎を築いた。
鎌倉幕府の執権北条氏にちなみ改姓・扇谷上杉「朝興」を破り武蔵国を制圧。今川氏・里見氏を圧迫して領土拡張する。
下総国国府台で、足利義明を討つ。古河公方「足利晴氏」に娘を嫁がせる・鎌倉八幡宮再建。
諸国から商人が集まり大変な賑わいだったと云う。小田原名産「外郎・薬」発祥、広めた。「勝って兜の緒を締めよ」の言葉は有名。

「北条氏康」 1515-1571 三代目・北条家発展に導いた名将。
山内上杉氏武蔵国河越破り、古河公方を傀儡とし、関東南半を支配する。武田信玄、上杉謙信と抗争と同盟を繰り返す。税制改革・地検推進
北条重臣「北条綱成」の守る河越城が、囲まれ、氏康兵8千を率いて何度も援軍に向かうが、その都度わざわざ退却する。が、
敵が安心したゆるみを見て「夜襲」し連合軍を撃破し潰走させている。世に云う「河越の夜戦、日本夜戦の一つ」上杉氏は、頼りにならない武田信玄と同盟を結べ遺言し没している。

「北条氏政」 1538-90 四代目 下総国国府台で里見・太田連合軍を破る。北関東へ勢力拡大、上杉・武田同盟・断交繰り返す。
氏直に家督を譲るが実権を握る。父氏康は、氏政食事時「汁加減もわからぬようでは、北条家も終わりだ」と落涙した云う。山積みの麦を見て「すぐに
麦飯を作れ」と家臣に命じた、これを信玄が聞き「麦はこき、こなし、ほし、つきて食にするもの、すぐには食えん」と世間知らずを笑ったと云う。
氏政の首は、一条戻橋に晒された。

「北条氏直」 1562-91 五代目 幕引き
本能寺の変後、上野国にいた信長の重臣「滝川一益」を撃破し、信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡を占領する。甲斐国で家康と争うが講和し、娘「督姫」を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏した。高野山追放・後1万石で大阪に住むが30歳で没している。
妻と別れ際、早雲が武運祈った「勝栗」の半分渡し「一族で、世に出るものあれば渡してくれ」と頼んだと云う。

                           老木が


                            本堂


                          清閑な境内


                        早雲の墓石 5代の墓 


「今大路道三幻鑑之墓」 徳川二代将軍秀忠公侍医
                          寛永3年50歳で没


「北条幻庵」 1493-1589 北条早雲の三男・北条5代に仕えた一族の長老・幼少で僧籍、三井寺で修行
北条軍の一将で国府台の戦い・平井城攻めに参加している。また歌会を開く文化人でもあったと云う。作庭にも秀でていた。
97歳で没した。娘が嫁ぐ際、彼女に渡した「礼式心得・北条幻庵覚書」は、一級史料。

                       幻庵の庭園




                         惣門

                        早雲寺鐘楼


「弥坂湯」で知られた坂。
地元の湯場、2~3人がせいぜいの小さな温泉共同浴場。
箱根の旧東海道沿い、地元住民中心に愛されている。
弘法の湯と程近い。 中は木造作りで狭く、いかにも共同浴場の雰囲気で、浴槽は、共同湯らしく内湯のみ。
泉質は単純温泉で消毒のみ行っている模様。源泉温度は48.7度と高いがそんなに熱くないと云う。
場所が箱根中心街と離れていることもあり観光客があまり来ないので、ゆっくり入浴可能。



次回は、登山電車で強羅方面へ。

難攻不落と誇った 小田原城跡

2018-05-01 | 気まま旅
神奈川県小田原市・県南西に位置し地名は中世以来ー原野を小田に開墾しと事に由来する。
小田原・足柄・大窪・早川・酒匂川等の一部と合併し市制(昭和15年)。
「土肥一族・小早川氏、早川荘」の中核として開かれた。後、大森氏から北条早雲が奪取し後北条は、関八州(武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸
上野・下野・・)を支配する北条城下町として繁栄した。
「豊臣秀吉」天下取りで小田原攻めで落城、後江戸時代には、「大久保氏」らが城主として小田原藩を治めた。
江戸を守る重要拠点で、特に「箱根」を結ぶ東海道の宿場町として再興し発展した。
明治に入ると一時衰退したが昭和9年「丹那トンネル開通」で、商業中心地として再生した。現在でも、梅栽培・相模湾水産費源蒲鉾・森林費源・観光
温泉街・風光明媚で温暖で「伊藤博文・山県有朋・北原白秋・谷崎潤一郎」等が居住。

                 私鉄小田急線「小田原駅」改札側


                 北条5代祭ー5月3日~5日 武者行列が 


                   城山公園下の三の丸付近


「小田原城跡・公園」
JR小田原駅南口・西口・箱根外輪山山麓の台地上にある。
土肥一族の小早川氏による築城が起源と云う。のち大森氏から後北条氏5代と江戸時代大久保氏の居城として幕末を迎えた。
北条氏末期に、城下を堀・土塁で囲まれ総延長「10km」に及ぶと云う大外郭(総構)が築かれている。

                   難攻不落を誇った城跡


    JRの鉄道が二分・天守閣は公園寄りであるが、元は反対の山城にあったと云う。


                      明治3年廃城


「土肥実平」 生没不詳 1100年頃 源頼朝信頼大の武将、相模国中村荘司の子、弟ー土屋宗遠・子ー小早川遠平と共に、頼朝と共にしている。
平家滅亡後は、備前・備中・備後の守護・義経後、京都警衛。
石橋山の戦いに敗れ、頼朝と行動を共にしている。一説では、頼朝と実平で真鶴岬から海路千葉の安房脱出に成功し、北条政子に伝えたのは子の遠平と云う。実平の子遠平から「小早川氏」で、安芸に移住し、戦国大名になっている。

                       駅西口の城山


「大森氏」は、台頭するのは、室町時代初期の「大森頼春」の代、鎌倉公方に仕え、上杉禅秀の乱の鎮圧に功績を挙げ、禅秀方であった土肥氏を滅ぼし、その勢力圏であった相模・伊豆に勢力を広げている。
「永享の乱」では持氏方に属して幕府軍と戦い敗れるも、国人領主として勢力を保った。
「享徳の乱」以降の混乱期においては、大森憲頼・成頼と大森氏頼・実頼父子の二系統に分かれ対立、太田道真・道灌の支援を受けた氏頼系が勝利し
憲頼系は箱根山中に逃亡し、氏頼系は扇谷上杉家に属し重臣となって、小田原城を拠点として勢力を広げ繁栄した。
その後、氏頼の子で実頼の弟の大森藤頼の代に「伊勢盛時」の手により小田原城を落とされ没落したといわれるが、史料の上ではつじつまの合わない部分も多く、その経緯の詳細については不明。
三浦氏滅亡の際にともに討ち死にした人物に「大森越後守」があり、氏頼の弟の高頼とされている。
「長享の乱」以降の「扇谷上杉家」の衰退と相模における後北条氏の台頭に従い、大森氏が没落していったことには間違いないが、北条家所領役帳には「大森殿」と殿付きで呼ばれている人物があり、大森氏の一族が客分扱いで後北条氏に従属していたと考えられている。
またこの「大森殿」以外にも 永禄10年に「北条氏邦」から印判状を与えられた「大森越前守」、駿河日枝社神主「大森猿千代」、天正13年に、徳川家康の援軍として「北条氏房」から派遣された「大森兵衛太夫」、「小田原合戦」で小田原城に籠城した「大森甲斐守」が存在する。
江戸時代に入っても徳川氏に仕え江戸幕府の寄合旗本として存続した者の他、水戸、備中など各地で大森氏子孫を名乗る家が存在したと云う。

                        公園内の天守


                    小田原のシンボル「小田原城」


                    1960年昭和35年 天守閣復原


                     1971年 常盤木門復原


後北條五代は、菩提寺「早雲寺」で。













難攻不落を誇る城、酒匂川・足柄山と箱根外輪山・早川・相模湾と四方囲まれ、深い堀、土塁で囲まれた「小田原城」。
両軍戦っていとら、豊臣軍が攻めきれたか疑問である。
次回は、北条5代のねむる箱根湯本「早雲寺」へ。



「報徳二宮神社」
天守閣の南西に鎮座。
「二宮尊徳」の偉業をしのび1893年明治26年建立された。

                    境内には、尊徳の像・報徳博物館などがある。


                            尊徳像


                             社殿


「筋違橋町」
橋の名が町名に、橋は、見当たらない。
町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ延びている。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠が11軒ほどあった。

                東海道一号線・旧東海道筋、昔ながらの町名、風情の店が。


                            山角町


                            組長屋


箱根湯本方面へ

海老名 相模国分寺跡 七重の塔がある。

2018-03-28 | 気まま旅

聖武天皇は、天平9年の737年、国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と「大般若経」を写す詔、740年、「法華経」10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
「続日本紀・類聚三代格」によれば、741年、天皇から「国分寺建立の詔」が出され、各国に七重塔を建て、「金光明最勝王経(金光明経)・妙法蓮華経(法華経)」を写経すること、自らも金字の「金光明最勝王経」を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、
僧寺の名は「金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺」とすることなどである。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。
747年、「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。
これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まったと云う。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れたと云う。
ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。

                       小田急「海老名駅」


           駅前通り、ビルが並び商店街に、歩行通路も改札口と同じビルの2階


仏教政治を初めて行った天皇「聖武天皇」 701-756 45代天皇・文武天皇の皇子。
聖武天皇は、南都六宗の学問を助成し、「天平文化」花開いた。国々に国分寺を創り、中央に「東大寺」を置こうとし、仏教の力で国を守って貰うやめに
東大寺の大仏を造らせた。それも、鋳物技術をもちいて、仏師の技を集めたもの。

「孝謙(称徳)天皇」 718-770 聖武天皇の皇女・46・48代天皇 聖武天皇後を受けて皇位に「仏教政治」を展開した。淳仁天皇(47代)淡路に送り
再び称徳天皇と名乗っている。妖僧「弓削道鏡」を引き立て、道鏡一派による思いのままの仏教保護がなされた。「尼寺」を。

                   駅前通り正面には、大型模型の七重塔が。


「律令」税金
日本の古代において,律令法の体系を基軸として形成された国家統治の体制。
7世紀の後半,近江令(存在を否定する説もある), 飛鳥浄御原令の編纂を通じて基礎が固められ,701年の大宝1年、大宝律令の制定・施行によってほぼその完成をみたとある。
                          国分寺址交差点       


7世紀聖徳太子・中央集権化が進められ、やがて律令制定になっていく。荘園を通じ、中央・地方とのつながりが強まっていった。が全国化するのは
10紀を待たねばならない。6世紀の「古事記・日本書紀」後世創作されたと思われるが。
天武・持統朝に入ると「続日本紀」ほぼ間違いない記録を踏んでいると云う。

                           「相模国国分寺址」


「相模国国分寺跡」駅から約1km・相模台地上で、法隆寺と同じ伽藍配置。
西ー七重塔・東ー金堂並列(礎石の一部のみ)
1292年、の銘の梵鐘(重文)が保存されていると云う。

                  国分寺配置図 「北方に相模国分尼寺跡が」  


海老名市は神奈川県の中央部・相模川に沿って広がっている。名は、大きな海老が生息していた土地。東半分が相模台地・西が沖積低地で水田が広がる

                              跡                            


「相模国」
律令体制での地方行政基本区画で、東海道に属した旧国名「相州」とも云った。相模国ー三浦半島ー房総半島へと続いて東海道と云った。
国府は海老名・小田原国府津の説あり。
                            北方建物跡


10~11世紀は、乱世で争乱で、鎌倉時代から室町まで幕府直轄地・関東菅領を鎌倉にあった。後北条氏時は関東は小田原。江戸時代は西・東複雑に移り
西部、大久保氏・東天領、旗本・・領地は複雑ー明治に入り足柄県・明治9年に神奈川県となった。

                             基礎石


                             国分寺跡


                             金堂跡


                          海老名市温故館ー古代遺跡など展示  


                           国分寺の模型   


「秋葉山古墳群」
火を防ぐ神を祭った「秋葉社」という祠があってその名が、第二号墳を秋葉山と呼んで、古墳群全体の名称となル。
古墳群は座間丘陵の標高75~80mの尾根沿いに、第一号墳から第六号墳の、計6基の古墳が確認、秋葉社があった第二号墳の後円部頂上は、標高84.6m市最高地点・第一号墳から第六号墳以外に近年の開発で消滅した古墳もあると云う。
尾根沿いに座間市内に入った場所にも古墳があるとの説、(未確認) 6基の古墳の内訳は、
「前方後円型墳墓が1基、前方後円墳が2基、前方後方墳が1基、方墳が1基」(学術調査がほとんど行われていない6号墳、墳形は不明と云う)。

                              土器


                              板碑


                             土器など  


「秋葉山古墳群」は、3世紀~4世紀にかけての相模湾周辺で最も規模が大きな古墳群であり、地域を代表する人物を葬ったものであると見られている。

                              板碑


「国分寺」                          真言宗高野山


                             大ケヤキ


                     境内の落雷で半分焦げても元気な欅


                               本殿


快適な小田急線で足柄へ

2018-03-27 | 気まま旅
「小田急線」
1923年ー小田急急行鉄道が創立・25年に新宿ー小田原敷設工事・27年複線運転・29年江の島線・・。
1942年、京浜電気鉄道と共に東京横浜電鉄を合併し、東京急行電鉄と改称し、東京急行電鉄は、続いて1945年、相模鉄道の運輸営業管理を受託したので、ここに東京西南部のほぼ全域に至る私鉄統合が成立した。
戦後、大東急が解体となり1948年、旧小田急電鉄は、東京急行電鉄から分離独立し、同時に京浜電気鉄道は京浜急行電鉄の名称で、京王電気軌道は京王帝都電鉄の名称でそれぞれ独立している。

             小田急の小田原駅・新宿からどんどん短縮されいる。


1948年、「新宿~小田原」駅間ノンストップ週末特急の運行・「藤沢~片瀬江ノ島」駅間の複線復旧を達成・続けて小田原急行鉄道創業以来の懸案であった箱根登山鉄道線への乗り入れを1950年、実現。1955年、は国鉄御殿場線へ松田連絡線を使用して気動車(キハ5000形)による片乗り入れが特別準急で実現し、小田急電鉄の車両と小田急乗務員で「新宿~御殿場」駅間の直通運転が開始。
高度成長最中の1957年、特急ロマンスカー(3000形SE)が、ロマンスカーは第1回鉄道友の会ブルーリボン賞を1958年、受賞。
御殿場線の電化により5両編成のロマンスカー(3000形SSE)に変わり、1960年、1964年完成。
1984年、新宿駅大規模更新工事完成で10両編成対応のプラットホームに。
輸送力の増強と軌道強化、そして安全確保の必要性から「37kgレールを50kgレール」に交換する重軌条化を推進し、混雑緩和と短縮に。

                 各駅で小田原の次が「足柄駅」


「足柄」の名は「古事記」景行天皇の条に「安思我良・阿之我利」などの記述がある。17世紀以前は、上・下の2郡に分かれ、以降「酒匂川」上流の
山中と下流を下郡となっている。明治では相模諸島・伊豆一円を「足柄県」、その後、神奈川県の一部となる。
足柄山地は、神奈川県・静岡県で、箱根火山と丹沢山地との間で、南部の箱根外輪山の金時山(1213m)その北に「足柄峠」でその一帯を足柄山と云っている。足柄山は、山姥が怪童丸(坂田金太郎)を育てたと云う伝説がある。

   小田急足柄・大雄山線五百伽藍駅と国道255号線の間に鎮座、「白山神社」鳥居


                  祭神ー白山彦命創建 社殿 (南足柄)


「勝福寺」 山号ー飯泉山  真言宗東派の古刹

上皇から賜った「十一面観音」を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して安置したのに始まると伝えられる。
この観音像は、唐からの僧鑑真が請来したものと伝えられ、当初は補陀落山と号し、「道鏡」の出身である弓削氏の氏寺であったという。
平安時代の830年の天長7年、現在地に移ったとされ、室町時代に現在の「勝福寺」と号するようになり、後北条氏の帰依を得た。
なお、この寺には曾我兄弟(曾我祐成・時致)が仇討ちの際に日参して成就したことや、二宮尊徳が14歳の時、旅僧の訓読する観音経を聞いて発心したという伝説が残されている。
               仁王山門  坂東33ケ所の5番札所


              市指定文化財          青銅水蜂         


            県指定文化財  本堂   堂内に五百羅漢が右左に配置されていた。             


                       延命地蔵


            県指定の大銀杏が境内に
                        銅鐘


                        六地蔵


足柄峠は旧東海道峠、足柄関が置かれ交通の要衝でこの峠を、「東の坂東」であった。東方には、矢倉沢関所を設けている。
後三年の役時「新羅三郎義光が家臣豊原時秋」に笙の奥義を伝授した物語が残っている。足柄城跡、聖天堂などの史跡も多い峠である。

「小田急線の車窓から」


足柄平野・酒匂平野は、箱根火山・丹沢山地・大磯丘陵(国府津・松田断層)が走っている。
平野を流れる「酒匂川」は暴れ川、氾濫を繰り返して大きな被害を与えていたが、「二宮尊徳」が、報徳精神で被災村落を守り復興させた。

         「尊徳記念館は、小田急線の小田原から三つ目の「とみず駅」下車


                          酒匂川


「伊勢原市」
史跡 八幡台石器時代住居跡・五領ヶ台貝塚・厚木大山街道・扇谷上杉定正と山内上杉顕定が争った古戦場跡がある・日本三百名山「大山」などが。

                       小田急線「伊勢原駅」


伊豆高原 駅の雛飾り 城ヶ崎海岸

2018-03-25 | 気まま旅
「伊豆諸島」
ー東京都・相模湾南方・富士火山帯・伊豆七島(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島)(青ケ島、べヨネーズ礁、鳥島、須美寿
島・・。でほとんどの島から縄文式の遺跡が発見されている。
7~8世紀にはすでに、流刑地(明治21年まで無人島の式根島を除く)。
江戸時代、幕府直轄地で、大島、新島、神津島、三宅島は塩年貢・八丈島は、絹年貢であった。
1869年明治2年は、相模府」・1870年は、韮山県・1871年は、足柄県・1876年は、静岡県・1878年から東京府に編入している。
昭和39年頃から富士箱根伊豆国立公園になり観光地化が進んだ。
なぜ東京都なのかー太平洋上軍事・地理戦略上重要地域。すでに江戸時代から、幕府の直轄地で島奉行・韮山代官などの支配下に置かれていた。
「船路・航空路」
東京・熱海・伊東・香取ー「大島便」が、「式根島、神津島」は、東京・下田、140°S(千葉県館山)「三宅島・御蔵島・八丈島」、東京。

                       伊豆高原の朝日






川奈に近い「小室山321m」・写真は、「大室山580m・国の天然記念物」山焼きは700年の歴史がある。

     風物詩、春の訪れを告げる山焼きはまだでした。(強風が続いているー2月中旬)


                   伊豆高原から見た大島


                   2月中旬の伊豆高原


「伊豆急行」
伊東ー南伊東ー川奈ー富戸ー城ヶ島海岸ー「伊豆高原」ー伊豆大川ー北川ー熱川ー片瀬白田ー伊豆稲取ー今井浜海岸ー河津ー稲梓ー蓮台寺ー
伊豆下田「16駅」                 
                    伊豆高原駅下車


                    駅構内に雛段飾りが(稲取の吊るし飾りが知られている~3月末まで)


                    江戸城石垣に




       花公園(日蓮上人が流されたどり着いたのが公園に近い蓮着寺がある)


                城ケ崎海岸沿い遊歩道に




                      門脇埼灯台


                      遊歩道


                      門脇吊橋(長さ48m・高さ23m)




                    城ヶ埼海岸の溶岩肌





                      吊橋の下