syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

銚子は国のとっぱずれ 銚子電鉄 醤油工場 

2018-06-03 | 気まま旅

源氏に大敗後、能登国で終焉を迎えた「平時忠」は、娘を「義経」に嫁がせており打倒、「源頼朝」に手を組んだ間柄であろう。
時忠の子、「平時実」の配流先は、上総国で下総国・銚子のすぐ近隣とある。義経銚子来航とまったく関係ないとも言えない。
平時忠が銚子で残したという句が、「命あれば またも渡らん 下総の 海上川の 笹まげの川」
敵ながら日本史上最大の大革命を起こした源頼朝も、その死を惜しんだという。
義経が千騎、隠したと言われている千騎ヶ岩・ 義経の愛犬が七日間吠えつづけ、八日目に岩になったと言われている犬岩・ 半官がなまって宝満となった島(人間が仰向けで空をにらんでいる)の伝説がある。
「犬岩は約1億5千年前のジュラ紀、太平洋プレートに堆積したものが大陸とぶつかって変形した島」 千騎ヶ岩は、県最古の地質時代の岩石。
(2億1千年前のものと言われている)。
「犬吠埼」は、義経の愛犬が吠えつづけた事に呼び名の起源、他にもまだあるが、最後に海に没したと言われる屏風ヶ浦の通蓮洞付近、讃岐城。
最近の研究では通蓮洞付近に土塁が現存しているという。 讃岐城の城主は義経四天王、片岡氏の城(一説にはその兄)。 讃岐城は鎌倉に謀反を企てたとし、源頼朝の命を受けた千葉氏に滅ぼされている。

「円福寺」飯沼観音とも云う。市内馬場町 山号ー飯沼山 真言宗、坂東33か所第27番札所

                  漁夫の網にかかった「十一面観音像」安置


810-824年弘法大師開基と伝わる。      正面本堂


        古帳庵句碑    「ほととぎす 銚子は 国のとっぱずれ」


期を迎える「ブッタ」
アナ-ンダに向けてこう告げた「私は老い朽ちて、人生の旅路を終えようとしている。例えば、古く壊れた車が革紐の助けによってようやく動いているようなものだ。もはや、カピラブァストゥに着くことはない」アーナンダは天を仰いで慟哭した。
「何を泣くのか。私は常にいっていることを思い出しなさい。生まれた者は必ず死ぬ運命を免れないと云うことを・・・すべてのものは変化し形を変えると云う真理を・・・ここで生命を失おうとしているのは、私の肉体にすぎない。私が悟った最高の真理は、人々が実践を続ければ、生命を失うことはない。そこに、常に私は生きている。永遠に生き続けるのだ。この悟りのみが、全宇宙においてただ一つの絶対不変の真理なのだ」
諸々の事象は過ぎ去るものである。たゆまず、怠らず、信じた道を、ただひたすらに進んで修行しなさい・・・・

                     ブッタ入滅の絵


「古帳庵」
豪商鈴木金兵衛が、江戸の商人らから寄付を募り1845年から石碑の建立を始めたが、百四基で中断したままになっていた。
まちは、2015・16年、残る84基を補完して番号順に並べ替え、金兵衛の悲願が170年ぶりに成就したと云う。
金兵衛は、黒岩村から江戸に出て、古帳類買入所(古紙回収業)で財を成し、一方、全国の霊場を巡礼し、各地に「古帳庵・古帳女」の俳号で句碑を残している。
その一つが、銚子市に残る「ほととぎす 銚子は国のとっぱずれ」の句碑で、同市では今も毎年「とっぱずれ銚子俳句大会」が開かれていると云う。
五大尊は、平安時代末期に作られた五大明王像で、古くから村の鎮守として大切にされ、生まれ故郷の五大尊に対する金兵衛の思いは強く、
「歌川国安」に描かせた錦絵「五大尊明王開帳参詣図」(制作年不明)を奉納したほか、1825年の開帳法要に合わせ、江戸一流の狂歌師ら25人による狂歌額を奉納している。
25人の中には「歌舞伎十八番」を制定した七代目市川団十郎(俳号・市川三升)もいて、金兵衛の交遊の広さがうかがえる。

       四国88カ所、西国33カ所、坂東33カ所、秩父34カ所の計188カ所の写し霊場。


「空海・弘法大師」 774-835 真言宗開祖 讃岐国で生まれる。
四国各地で修行・入唐し・帰国後、嵯峨帝から高野山を賜る。著書多く、書は三筆の一人で伝説も多い

                            本堂






「銚子電鉄」は、大正11年、 銚子鉄道設立し、大正12年、 銚子 - 外川間開業した。
昭和20年、 空襲により車庫、変電所を焼失し長期運休、その12月に国鉄より蒸気機関車を借りて仮営業。
昭和23年、 企業再建整備法により銚子電気鉄道を設立し資産を譲渡して、銚子鉄道は解散された。
昭和35年、 千葉交通傘下に、平成2年、 経営権が千葉交通より内野屋工務店に移り、同社の傘下、 犬吠駅(ポルトガル風)駅舎竣工・営業開始。
各駅の改築工事と電車の塗装変更を実施し、観光路線化を図リ現在に。

                    モダンな駅舎の「観音駅」


「群馬県高崎藩・旧陣屋跡」

旧高崎藩銚子陣屋・飯沼陣屋のあったところと云う。 碑文には、次のように刻まれていた。
飯沼陣屋由来記
「銚子の地は享保二年(1717)髙崎藩主松平右京太夫輝貞の支配に属しその髙十七ヶ村合せて五千十石 想うに寛永十二年(1635)利根水運江戸に通じてより日本海及東北各藩の物産多く銚子を中継地として江戸に運送するに至りその関門を扼する重要なる地点たるに及びて幕府は直系髙崎藩をしてその統治に當らせたるものならむ、爾来明治五年(1872)髙崎県支庁の廃さるゝまで十代百五十余年の間此所に陣屋を置き郡奉行一名代官二名その他により藩政を執行せしめたり、本碑の位置は當時の東辺中央に位し旧図に示す熊野大権現は隣地の社址なりという。
この辺曽(かつ)て郭町と称し後に西町と改め現在陣屋町と称(い)う。 飯沼陣屋廃されて八十餘年漸くその址虚しからんとするときこれを記念せんとする町民の熱意相凝って茲にその由来を記しこの碑を建つ 。 昭和三十四年四月十日 撰文 常世田忠蔵 ・ 飯沼陣屋址記念碑建立会長 名雪雲平

                        高崎藩銚子陣屋跡


                          陣屋町公園


「松平輝貞」    1665-1747 江戸中期 墓所は埼玉県新座「平林寺」。
官位は、従五位下、右京亮、従四位下、侍従、右京大夫。藩は、摂津国・河内国内→下野壬生藩主→上野高崎藩主→越後村上藩主→上野高崎藩主
父、松平輝綱で 母、龍泉院(板倉重宗の十一女)・ 養父、松平信興 。兄弟ー主殿、惣左衛門、勘解由、信輝、鶴千代、、。
妻は、正室、市子(折井正辰の娘、柳沢吉保養女)で、子は、養子の規輝。

                        高崎藩・銚子陣屋跡


                    ここ銚子市北小川町    庚申堂


                     ヤマサ工場の裏手に出た。


「水神宮」祭神ー水波能売命(水の女神)
                      安産・疫病・水難除け


ヤマサ醬油工場
「醤油製造工程」
本醸造方式ー 蒸した大豆(脱脂加工大豆)と炒った小麦を混合し、種麹)を加えて「麹」を造り、食塩水と一緒にタンクに仕込んで「諸味・もろみ」を造り、撹拌を重ねながら(約6~8ヶ月)ねかせると、麹菌や酵母、乳酸菌などが働いて分解・発酵が進み、さらに熟成されてしょう油特有の色・味・香りが生まれ、 伝統的なしょうゆ製造法。(アミノ酸液は原材料として用いらない) 現在日本で生産されているしょうゆの約8割は「本醸造しょうゆ」

混合醸造方式ー「諸味」に大豆(脱脂加工大豆)、小麦、とうもろこしなどのたんぱく質を塩酸分解してつくったアミノ酸液を加え、数ヶ月間熟成、製品によっては、アミノ酸液ではなく、塩酸の代わりに酵素で大豆を加水分解した酵素分解調味液や小麦を発酵により分解した発酵分解調味液を使う。
アミノ酸特有のうま味やこく味が強いのが特徴で、地域によっては、混合しょうゆが好まれていると云う。

混合方式ー 本醸造しょうゆまたは混合醸造しょうゆにアミノ酸液を加る。
製品によっては、アミノ酸液ではなく酵素分解調味液や発酵分解調味液を使い、アミノ酸特有のうま味やこく味が強いのが特徴。

        銚子電鉄 なかのちょう駅 ヤマサの鉄道運搬はこの駅から


                 JR銚子駅の次が「なかのちょう駅」


                ヤマサ第一工場入り口 見学はここから


1700年前後から江戸を志向して、本格的しょうゆ醸造に乗り出し、原料の大豆・小麦は、関東平野で、塩は、行徳などから利用した。
船・水路が活躍した。
醤油の生産高は、野田醤油、キッコマン(千葉県野田市)に次いで全国第二位である。
全国生産量ー年120万㎘-銚子は、約22万㎘・従業員約1500人(1991年)

                       資料館前


「ヒゲタ醤油工場」は、JR銚子駅手前にある。
                     浜口儀兵衛店時代の絵


                     ヤマサ醤油煉瓦蔵跡


「妙福寺」日蓮宗の寺、日高聖人が開基、日祐聖人によって開創。
開創当初は八日市場市山崎地区に、「般若寺」と称していた。
1300年代に現在の地に移転し、寺号は「海上山妙福寺」。
妙見宮本殿、妙見堂は釘が一本も使われていないと云う。慈母観音像や二百貫みこしの納められ、宝聚殿、平川竜神堂、浄行堂などがある。
江戸時代に移り住んで銚子発展に大きく寄与した紀州人達の遺徳をたたえる紀国人移住碑があり、毎年5月には紀州人を祖先に持つ木国会が慰霊祭を。
この移住碑は、明治36年建立され碑文「銚子港もと海浜の一僻地、今日の繁栄はひとえに我が紀国人の開拓の功による」とある。



                            本堂


有名なのは藤の花.
平安時代中期に京都から移植されたもので樹齢は750年を越え、見た目の龍の伏せている姿に似ていることから「臥龍の藤」と呼ばれている。
最盛期には1メートル以上の花の房が見られ、藤の季節(毎年5月第1土日曜日は藤祭り)が。

                            浄水


                             滝


「威徳寺」真言宗智山派の寺。
円福寺(飯沼観音)の末寺、もと袋町にあり、明治44年、現在の地に再建。
寺伝によると、創立は嵯峨天皇弘仁元年の810年、 弘法大師東国遊化の砌り、下総国銚子港荒野袋町(現 銚子市双葉町) に草庵を結び 本尊薬師如来の尊像を自ら彫刻せられ安置し給いてよりはじまりとある。



「浄国寺」には、松尾芭蕉句碑がある。(銚子に訪れた記録はない)
        小林一茶句碑がある。1817年銚子を訪れた。(豪商 大里庄治郎家に世話になったとある)

                             庚申堂


「浜口梧陵」
1820年の文政3年、生まれで、1885年の明治18年、没した紀伊国広村(広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。
醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現ヤマサ醤油)当主で、第7代浜口儀兵衛を名乗った。
この間、洋学者、海防家としても活躍し、開国論を唱え、梧陵の業績のなかで最も特筆されるのは、私財を投じて長大な広村堤防(国の史跡)を築き、
民を津波から守った。戦前の国定教科書には津波から村人を救った物語「稲むらの火」のモデルとして掲載され、広く知られている。

                      浜口悟陵紀徳碑




次回は、千葉県笹川(天保水滸伝)笹川へ。

成田のうなぎと成田山新勝寺

2018-05-31 | 気まま旅

「成田屋市川團十郎と不動明王」
歌舞伎には「見得」という芸があり、役者の演技がピークに達したところで、顔の表情やポーズをそのままにして、しばらくのあいだ動かずにいることを「見得」という。「お不動さま」のゆるがぬ御心が歌舞伎にあらわれたのがこの「見得」。
二代目自作の歌舞伎「不動」の中で演じた「不動の見得」は、まさに見得の中の見得と云う。
二代目市川團十郎が演じた「不動」の舞台は、「不動の見得」という表現が有名であったと云う。
あまりの人気に「不動の見得」でにらまれると、あらゆる病が治ると噂され、江戸中に不動尊信仰を広めて行きます。
現代でも、「不動の見得」は、歌舞伎界で市川家にだけ許されたお家芸で、見得のかまえにはお不動さまの精神が宿っているといわれている。
市川家に伝わる「にらみ」は、邪を祓うお不動さまの御霊徳をあらわしたもので、「にらみ」の表情は、歴代團十郎によるお不動さまへの深い信仰の証。
弁慶の衣装には、「お不動さま」梵字がデザインされ、九代目團十郎が「勧進帳」に出てくる弁慶の衣装を梵字散らしの水衣に。
この衣装には、お不動さまをあらわす梵字が金糸で縫われていると云う。
「お不動さま」の化身としての「勧進帳の弁慶」 江戸期の歌舞伎舞台が一枚の絵で残って、その絵では、不動明王と弁慶が一体となり描かれていると云う。山伏の姿をした弁慶は、「お不動さま」の御姿であると古来より信仰され、歌舞伎の舞台に見られる多くの芸が、市川家の不動尊信仰から生まれていると云う。
                 JR成田駅ー総武本線・成田線(向かいに京成成田駅)


「京成電鉄」
創業者・「本多貞次郎」 1858-1937  藩士・次男として宇都宮に生まれ。
明治15年工部省に出仕し、神戸、名古屋等に東海道線鉄道工事の現場監督をし、のち官を辞して尾張炭鉱、日本鋳鉄、雨宮敬次郎の豆相人車鉄道等諸会社の創設につくす。(日暮里-成田空港間64.1kmが36分で結ばれる)
明治36年、東京市街鉄道会社の工務課長・42年、専務取締役、社長に就任し、北総鉄道、武州鉄道、渡良瀬水力電気、大同電気等各社の社長または取締役を兼任している。大正9年、衆議院議員に当選し以後引続き5回当選。昭和8年鉄道会議議長となる。大正14年、帝国鉄道協会理事・副会長を。
鉄道同志会、電気協会、電気倶楽部等の役員を勤め、昭和12、病気のため死去。 79歳。
鉄道大手14私鉄の成立史は、第2次世界大戦を間に挟みながら、合併と買収を繰り返した。



「芝山鉄道」私鉄京成成田駅ー成田空港間
成田空港が建設されることによって東西方向の交通が寸断され不便を被ることになる空港東側地域の住民や企業への補償として、国が、京成本線の(旧)成田空港駅(現在の京成東成田線の東成田駅)以遠を第三セクター方式で延伸する形で建設した鉄道。
昭和56年、に会社が設立・昭和63年、ー「芝鉄成田空港駅」ー「整備場前駅」が。

                     表参道 成田市上町と本町


                     参道を中心に多地図


                   「太鼓祭」 4月14日ー15日


                      成田山開基1080年祭


「三橋鷹女」 俳人、1899-1972  成田生まれ、

「あたたかい雨ですえんま蟋蟀です くちびるに夜霧を吸へりあまかりき この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 つはぶきはだんまりの花嫌ひな花 てのひらに蜂を歩ませ歓喜仏 ひるがほに電流かよひゐは...」
本名、たか子。旧号・東文恵、原石鼎、小野蕪子に師事。
戦後、新興俳句系の「俳句評論」等に関わる。昭和期に活躍した代表的な女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれた。

                           三橋鷹女像


                       空港で国際色に、参道商店街


全国でも珍しく、周囲にはうなぎを焼く香ばしい香りが参道に、うなぎをさばく職人が一列になって作業が見られる。
ふっくらと柔らかく、焼き立てならではのおいしさをぜひ味わいで人気の「成田のうなぎ」。
印旛沼の漁場に恵まれ、江戸の昔より成田山の参詣客をうなぎ料理でもてなしてきたと云う伝統のある成田山参道沿い。
「秘伝のタレ」を代々受け継ぐ老舗の料理店が数多くありる。

                   店頭先でウナギをさばく職人さん達


「平 将門」 940頃 新皇と称した武将。
京で藤原忠平に仕え、無位無官で下総に帰郷・武蔵国と土豪争いに介入したのを契機に反乱を起こす。東国国司追放し、新皇と称した。
が、最後は、「藤原秀郷」に討たれる。ある地域では新皇と崇めている。京で晒された。

「成田山新勝寺」 真言宗智山派の大本山。

939年「平将門」の乱に際し、東国鎮護の霊場として「朱雀天皇」が創建した。

                        成田山金剛王院新勝寺(約55000H2)


東京深川へ出開帳と團十郎の不動明王によって、
                    江戸庶民の参詣が急増した。仁王門


                 今日でも年間1100万人の参詣者があると云う。                      


                         大提灯


                       池中央に亀石が


                       鐘楼・三重塔・雄飛の滝などが


                 大本堂  木造不動明王・二童子像安置 (昭和42年建立)


                      本堂裏に成田山公園が


                       本堂左奥に出世稲荷が


                         釈迦堂


「銘柄 長命泉」
                     滝沢本店 明治5年創業


「滝澤栄蔵氏」が、江戸時代末期に成田山参詣し宿でお不動様の夢を見て、「ここでお酒を造りなさい」とのお告げを受け、成田の発展性を見越し、当時御影石の大鳥居が立っていた現在地で酒店を開業し、近郷の良質米を原料として酒造りを始めました。
その後、間もなくして、当社酒蔵の井戸水が大変美味しく良い水であるとの評判が広まり、ご参詣の折に私どもに立ち寄り、井戸の水を汲んで帰られる方が増え、共にこの水のおかげで病気が治った、大変長生きした、百薬の長等のお話が各地から寄せられるようになる。
そこで、当社醸出の酒を「長命延命霊力」の酒、といった意味を込めて「長命」と名付けたのが始まりと云う。
以来、当蔵の井戸は、今でも、満々と水をたたえ、自らも長命霊力を与えられているかのように、涸れることがあいと云う。



                衆生の病気を治し安楽を与える仏・成田山薬師堂


世界の醸造酒で、アルコール20%も出すのは、「清酒」だけ。
その大きな理由は、並行発酵ー糖化(麹作用)と発酵(酵母作用)が並行して進み、アルコールが15%以上になると、酵母自身苦しくなります。
そこで、アルコールを緩和してやるものが必要となり、麹がその役割をします。
「麹菌」の中に「プロテオリピッド」と云う物質が含まれているので、これが「酵母」を守ります。
これが日本古来の醸造法でした。

「私からの提案」ー成田国際都市構想の一つにー大蒲焼定食1000円・山盛り鯰天ぷら定食1000円を県・企業・団体で「養殖開発」してください。
         環境に適してます。

銚子のイワシ漁 飯沼観音

2018-05-30 | 気まま旅

「親潮」-千島列島に沿って南下して日本の東まで達する寒流。
日本の南を流れる黒潮とともに日本近海にみられる代表的な海流・また、海流ではなく、北海道東方や釧路沖、三陸沖などに存在する低温・低塩分で溶存酸素量が多く、 栄養塩に富んだ水を親潮ということもある。
「親潮」の名は、栄養塩が多く、魚類や海藻類を養い育くむ親にあたることに由来すると言われ、 親潮は緑や茶色がかった色をしている。
北太平洋には北と南に大きな二つの循環があり、北側のものは親潮を含むもので、反時計回りに流れていて、亜寒帯循環と呼ばれている。
南側のものは黒潮を含むもので、おおむね北緯40度以南を時計回りに流れていて、亜熱帯循環と呼ばれている。
亜寒帯循環はベーリング海を出ると東カムチャッカ海流として千島列島沿いを南西に流れ、その一部はオホーツク海に入り、オホーツク海を循環してウルップ海峡などから再び太平洋に。
そのとき、千島列島沿いをそのまま南西に流れてきたものと、海水の交換・混合が起こり、親潮が生成されると云う。
「黒潮」-東シナ海を北上してトカラ海峡から太平洋に入り、日本列島の南岸に沿って流れ、房総半島沖を東に流れる海流。
日本近海を流れる代表的な暖流で、日本では日本海流とも呼ぶ。
貧栄養であるためプランクトンの生息数が少なく、透明度は高い。このため、海色は青黒色となり、これが黒潮の名前の由来、南極環流やメキシコ湾流と並んで世界最大規模の海流。

銚子沖は、親潮と黒潮が交わる好漁場で、魚種漁獲高を誇っている。銚子の漁業は、紀州の漁民によって開発され、特に「イワシ漁」が盛んであった。
1658年外川漁港を築港している。
                            JR銚子駅


「銚子大橋」は、千葉県銚子市と茨城県神栖市間 (利根川)。
建設は、2005年 - 2013年で現在には橋は、2代目。形式ー斜張橋および箱桁橋 。

            全長ー1,209.1m・幅11.0m(2車線、歩道部を含む)






「銚子漁業」
元禄期前後に銚子の醤油産業が発展し、1658年には、「崎山次郎右衛門」が外川浦に漁港を開き、外川港の繁栄をもたらした。
利根川は、幾度もの改修工事を経て、1624~1643年、現在の流路に整えられ、江戸を洪水から救うとともに、江戸~銚子間の「利根水運」
が開かれ、東北地方の米などを江戸に運ぶ重要な中継港として発展してきた街。
江戸末期にはイワシの豊漁が続き、「大漁祭」が行われる。



「母子河童」
昔、大新海岸に母子河童が住んでいて、利根川の水運の繁盛と船や河岸で働く人たちを水難から守ってくれたと云う伝説が。

                   母子河童像 平成7年建立他ある。




「浜口吉兵衛」
ヒゲターの「ヤマサ印」・「亀甲萬印」と共に醤油界の地位を確立、
明治後期、中央財界・「矢野恒太」とともに「第一生命」を興し、銚子醤油、「現ヒゲタ醤油」、千葉県水産社長、武総銀行取締役、第一相互貯蓄銀行、
東京護謨工業、第一生命、豊国銀行、利根織物監査役等歴任。
1868年、紀州広村に生まれ、8代目「濱口吉右衛門」の四子。東京帝国大学卒業し、卒業後、兄の「9代目濱口吉右衛門」が、「政界・経済界」で活躍して多忙であった為、しばらくの間、兄を助けて「家業」に、明治25年、「濱口儀兵衛」と共に、海外視察。
儀兵衛から醤油醸造を学だと云う。
                          浜口吉兵衛像


                          水神宮神社


                         永照稲荷大明神


銚子は、日本一早い初日の出・犬吠埼灯台が関東最東端。1月上旬は、大漁を祈願して「乗り初め」。
2・11月には、春と秋「菅原大神」・奉納された約90個の子産石を抱く事ができる。(25日)。
大潮祭は、6月中旬、川口神社・渡海神社の神輿がねり歩く。
8月ー銚子港まつり・利根川河川の花火大会が。
10月「銚子農産・水産祭・11月「黒潮よさこい祭り」などのイベントが。

                      水を祀った神社が多い。     


                         魚の天日干し


                イワシの巻き網漁船、マグロ漁船の大型船が。    


                      魚種・漁獲高全国屈指の港


                      卸売市場 生鮪水揚げ入札風景                    


                     国道356・126号線銚子は交通の要


「飯沼観音」
大仏ー1711年、造立された「一丈七尺(約5.4メートル)の阿弥陀如来座像」
青銅製で、蓮座(ハスの花をかたどった台)には何万もの寄進者の名が刻まれている。膝のところにある数ヶ所の傷は第2次世界大戦時に受けた機銃掃射のあとと云う。
           坂東33観音霊場 第27番札所、本尊は、十一面観世音菩薩(秘仏)。


「ちょうしのかんのんさま」として、信仰と尊崇の念を集めている。毎月18日「縁日」

                          本堂


「五重塔」-平成21年完成
外観は、 木造、朱色塗装・ 屋根は、 銅本葺・薬師如来奉安。

                          総高ー33.55M


「飯沼水準原標石」-利根川や江戸川の河川整備に必要となる水位表記の基となった「水準原標」・保護コンクリート中央の13cm角が水準原標石
1872年、明治政府の招聘により来日した「ドールン」を代表とするオランダ人技師団の一人、「リンド」により設置。
水準測量(高さを測る測量)行う時の原点・利根川、江戸川の水準測量を開始するときにリンドは、
銚子市にある飯沼観音内に設置し、これを基準に飯沼水位尺(量水標)の基本水平面を「J.P」日本水位尺と名付け、ここから、利根川、江戸川の基本水平面の高さや荒川の基本水平面の高さが決まり、現在のそれらの河川における河川計画の基準高となっている。
明治政府は、利根川、江戸川、荒川や信濃川や淀川等の河川を治水(河川の氾濫から町を守ること)や利水(舟運のための運河の建設や農業・工業用水や上水の確保)等の河川改修のため、オランダ人技師を招いた。

                              碑

                              碑


「銚港神社」
飯沼観音に隣接する神社。
祭神ー 闇淤加美神・級津彦神・級津姫神。
創建は、不詳と云う。
古くは龍蔵権現と呼ばれ、神仏混交により円福寺(飯沼観音)とともに信仰されてきた神社で、神仏分離により、明治初期に「銚港神社」となった。

                          鳥居と神木


                       銚子市総社 銚港神社


                            狛犬


                            社殿


JR銚子駅北東約3kmの川口町に鎮座する「川口神社」-祭神 速秋津姫命は、利根川河口に臨む丘上にあり、銚子港へ入る船の目印と守り神。
特に、漁師の信仰を集めた神社。
「大漁節」に歌い込まれいる。伝説に延命姫の歯と櫛を埋めたと云う。

次回も、銚子市内。

市原 国分寺と「新皇塚古墳」など見どころ多い

2018-05-29 | 気まま旅

イチイが生い茂った原が転訛して「市原」、千葉県のほぼ中央部で東京湾岸の「工業・農業・住宅・・」・1963年市原・五井・姉ヶ崎・・合併し
「市原市」に、大部分が「上総丘陵」と北流する「養老川」、南部は丘陵地帯、中部に台地・縄文、弥生時代遺跡が多い所。
海岸低地は埋め立て地で「京葉工業地帯」。また、この地は、大化の改新後「上総国の中心地」、国衙が置かれ、奈良時代に上総国国分寺が建立されている。鎌倉時代は、神奈川県・三浦半島と結び交通の要地として栄えている。
江戸時代は、幕府直轄地で旗本知行地。明治に入り、海苔・貝など半農半漁となる。
丘陵部には、全国一位のゴルフ場が20ヶ所を超えてていたが、現在はわからない。

「聖武天皇」 701-756 仏教政治。45代天皇で文武天皇の皇子、嫡流・仏教南都6宗の学問を助成「天平文化」
国々に「国分寺」を創る。中央に東大寺を置いた。聖武系皇統は、その後途絶える。

「孝謙・称徳天皇」 718-770 仏教保護で国乱れる。
46・48代天皇、聖武務天皇の皇女「国分寺尼寺」を置いた。妖僧「弓削道鏡」を引き立て、藤原仲麻呂を除き、道鏡一派の思いのままの仏教保護が
なされたと云う。

「植木・イチイ」
耐陰性、耐寒性があり刈り込みにもよく耐えるため、日本では中部地方以北の地域で庭木や生垣に利用される。
東北北部と北海道ではサカキ、ヒサカキを産しなかったため、サカキ、ヒサカキの代わりに玉串など神事に用いられる。
また、神社の境内にも植えられる。





国分寺は,今から1250年ほど前の奈良時代中頃,国の平和と繁栄を祈るため,全国60か所余りに建てられた僧寺と尼寺からなる国立寺院。
 上総国分尼寺跡は上総国分寺跡から北東1.5kmの台地上に立地する。寺域は南北約372m,東西約285mの長方形。昭和43~45年の発掘調査で講堂,中門が確認された。史跡の整備が進められ,復元された中門,回廊が。

                            上総国分寺


          境内には「将門塔」と称される1372年、建立の宝篋印塔がある。指定文化財。


「新皇塚古墳」は、墳丘全長80m・一辺長40mで4世頃の古墳ー形は残っていない。「王賜」銘鉄剣の出土した「稲荷台1号墳」がある。



                           境内へ


「国分寺」
養老川北岸の台地上に所在し、北東方には国分尼寺跡が残るほか、周辺には古墳・遺跡や瓦の窯跡が多く確認・旧国分寺の跡地に重複して位置し、その法燈を受け継ぐといわれる。
旧国分寺は、1394年-1427年頃までの存続は確認され、その後は、荒廃。
寺伝では、元禄年間の1688年-1704年、に僧の「快応」によって再興・1716年、に現在の薬師堂が落成したと伝える。
後に、仁王門も設けられたとある。

薬師堂は、江戸時代の1716年に建立。
堂内の厨子に本尊が安置されている。門・薬師堂は、(市原市指定文化財)
金剛力士像は、それぞれ阿形は南北朝時代、吽形は江戸時代の作と云う。市指定文化財。



                           西門跡


                          寺内基石配置


                           仁王門




                            鐘楼


                         境内には巨老木が


                          銀杏の大木


                     国分寺薬師堂 江戸時代中旬に再建ー 市指定文化財


天平13年の741年頃。
寺域・南北約490m,東西325mで,長方形が重なった形をしている。
塔は七重で,高さは63m以上、大きな礎石が往時をしのばせる。

                      上総国分寺尼寺展示館


「金光明四天王護国の寺」
金光明最勝王経」を敬い、国土に続み広める王があれば、四天王が常に来て守護し、災いを除いて至福をもたらすと説いている。

上総国分寺の寺領は、北東と南西・谷・古墳を避けているために四角形では無く、南北478m・東西北辺で25m・中央345m・南辺299m
面積13.9万m2で武蔵国・下野国に次ぐ広さ。「七堂伽藍の広さー南北219m・東西194mが国定史跡」

    全国国分寺跡68ケ所ある。総国分寺・東大寺 総国分尼寺法華寺(奈良県にある)


千葉県には、安房、館山国分・下総、市川国分・(武蔵、国分寺・上野高崎・下野栃木・・)



寺内配置は、
北門ー政所院ー講堂ー経楼ー金堂(回廊)-中門ー南門ー東西南北の門ー築地塀



七重塔は、国分寺を象徴する最大の建築物とされた。
















「市原氏と古墳群」
養老川の右岸で,国分寺台古墳群や諏訪台古墳群,神門古墳群など数多くの古墳群があったが,宅地造成に伴って発掘調査され,保存古墳は公園として宅地のなかにわずかに点在するだけとなった。稲荷台1号墳は,「王賜」銘という銀象嵌の施された鉄剣が出土したことで一躍全国的に知られた。この古墳の主は,鉄剣の他に鉄鏃,短甲などが出土していることから,畿内と関係のある武人と考えられている。また,出現期の古墳として知られる神門古墳からは畿内,北陸,東海の様相をもった土器群が出土していて,この地域の豪族がそれらの地域と行き来していたことが分かる。
 奈良時代になると,この地域には場所は特定されていないが,国府が所在しており,上総国の中心であった。上総国分寺は礎石から当時の面影を知ることができる。
             国分僧寺、国分尼寺、総社などが集中している。(惣社地区)


大涌谷の湯けむりー箱根ゴールデンコース 強羅 桃源台 

2018-05-07 | 気まま旅
「箱根八里」
明治34年、中学唱歌に初出の唱歌・「鳥居忱・作詞、瀧廉太郎作曲」
題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。
東海道では大井川とともに難所として知られ、箱根馬子唄でも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる。
李白の漢詩「蜀道難」の一節「一夫當關 萬夫莫開」が歌詞に織り込まれるなど、漢籍にみられる故事や古典、歴史に由来する事項が多く盛り込まれていると云う。
歌詞に登場する「函谷関」は中国の長安と洛陽の間、長安のある関中の地への入り口を扼する関所で、王朝の死命を制する要衝として有名。
漢の劉邦と楚の項羽の攻防や孟嘗君の故事などで知られ、また「蜀の桟道」は蜀の地、すなわち四川盆地を守るに堅い要害としている山中の難所でやはり劉邦の天下取りへの備えとなった故事がある。いずれも箱根の関所のある山道の険しさを・・・。

箱根の山は、天下の嶮・ 函谷關も ものならず・萬丈の山、千仞の谷・ 前に聳え、後方にささふ・雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす・昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか・一夫關に当たるや、萬夫も開くなし・天下に旅する剛氣の武士・ 大刀腰に足駄がけ・八里の碞根踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士。
箱根の山は天下の岨・蜀の桟道數ならず・萬丈の山、千仞の谷・ 前に聳え、後方にささふ・雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす・昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は、苔滑らか・一夫關にあたるや、萬夫も開くなし・山野に狩りする剛毅のますらを(益荒男)・ 猟銃肩に草鞋がけ
八里の碞根踏み破る・ かくこそあるなれ、当時のますらを。

箱根湯本ー塔の沢・大平台・宮ノ下・小涌谷・彫刻の森・強羅














強羅ー早雲山 ケーブルカー約10分


早雲山 標高1151m・強羅は、神奈川県箱根町県の南西部、早雲山は北部に麓に温泉地が、地名は岩石がゴロゴロしている所から。
箱根登山電車が湯本から強羅間の開通が1918年で新しい。箱根観光の中心になっている。公園・美術館・スケートリンク等がある。



箱根火山最高峰神山・駒ヶ岳・二子山は、第一期火山活動中に起きた断層が中心で火口丘形成された。
最後の大きな活動は、約3000年前の神山北斜面の水蒸気爆発で、その土石流が「早川」の上流を堰き止めて、「芦ノ湖」が誕生。
仙石原は、その砂粘土が堆積してできた。
現在の大涌谷や早雲山はその後、噴気活動している。











早雲山ー桃源台 ロープウエイ約20分芦ノ湖へ空中散歩



箱根七湯ー湯本・塔の沢・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀・芦之湯(早川渓谷の谷底に自然湧出)





大涌谷も箱根町の北部、硫気孔郡のある谷で、上部を閻魔台・下部を地獄沢と呼んでいたが、1873年、明治天皇行幸で「小地獄を小涌谷・大涌谷」
に改名している。中央火口丘が神山、高1438m・箱根ロープウエイの大涌谷駅前に自然館と観測所が併設している。















冠ヶ岳 標高1409m。


「姥子」下車


これで箱根の旅終わります。