易経は儒教の聖典である五経の一つであるが、儒者のみならず、他の学派でも頻繁に引用されている。その理由は、定めなき世間に対処する先人の智恵が盛り込まれているからであろうと私は考える。この易経の対処の仕方がユニークである。森羅万象を先ず陰と陽の二つに大別するのだ。そして、陰陽の組み合わせ、つまり(2の3乗=八卦)のものを2セット掛け合わせることで、64通りのパターンを作る。彼らの世界観は、世の中の万事がこの64通りに尽くされていると主張しているようだ。
陰陽というのはコンピュータでいう2ビット構成であり、現在のデジタル化の基本概念そのものである。灰色とか、すこし暗いというあいまいな値ではなく、白黒はっきりつける、という発想が私が以前
『。。。中国の根本的な考え方はデジタル的である』
と述べた理由だ。
【参照ブログ】
想溢筆翔:(第13回目)『下駄履きのシンデレラ』
百論簇出:(第97回目)『和を以って貴しと為す、とは聖徳太子も迷惑顔』
さて、易経(革卦)には『大人虎變,其文炳也。君子豹變,其文蔚也』(大人、虎変す、その文や炳なり。君子、豹変す、その文や蔚なり)という言葉がある。この意味するところは、『物の道理の分かった人であれば、過ちがあれば、ぐずぐずせずにきっぱりかつ速やかにその過ちを修正する』だ。過ちを犯さないにこしたことはないが、過ちだと分かった時の対処にしかたに、その人柄や器量が表われると、言っている。ちなみに、論語ではこの趣旨は次のような言葉で表現されている。
『過則勿憚改』(過ちては、則ち改むるに憚るなかれ)
一方、同じような諺はギリシャ・ローマにも見出すことができる。ギリシャ語では、Poulupodos noon ische, と言い、それを直訳したラテン語では Polypi mentem obtine, という。何れも『タコの智恵を持て』という意味である。タコは敵に追いかけられ、逃げ場が無くなった時に、近くの岩にへばりつき、自分の体の色を岩とそっくりの色に変化させて敵の目を欺くという。タコは変身することによって、危険から身を守ることができるのだ、とこの諺は説く。
つまりギリシャ・ローマで『タコの智恵を持て』というのは、周囲の状況に合わせて言うべきことを変えよという意味で、機転の勧めと言えよう。したがって、上の中国の諺でいう過ちを改めるというようなニュアンスはここでは薄い。
ところで、エラスムスはこの諺を Adagio という本で紹介しているが、風見鶏のように意見をころころと変えるのは彼の信条に反したのか、この諺を紹介したあとで、次の文句を付け加えている。
Stulum perinde atque lunam immutari,
Cum sapiens solis exemplo sui semper sit similis.
(愚者は月の如く変転極まらず。賢者は太陽の如く恒常なり)
エラスムスは流石、ルネサンスを代表する文人だけあって、皮肉がばっちり効いている。この一連の文章から、眼力のある読者は、エラスムスの意図は、実はタコの浅智恵をあざ笑っていることを了解する。おっとっと、こういうと気に障る政治家が某国には幾人か、いそうだからこの辺で切り上げることにしよう。
陰陽というのはコンピュータでいう2ビット構成であり、現在のデジタル化の基本概念そのものである。灰色とか、すこし暗いというあいまいな値ではなく、白黒はっきりつける、という発想が私が以前
『。。。中国の根本的な考え方はデジタル的である』
と述べた理由だ。
【参照ブログ】
想溢筆翔:(第13回目)『下駄履きのシンデレラ』
百論簇出:(第97回目)『和を以って貴しと為す、とは聖徳太子も迷惑顔』
さて、易経(革卦)には『大人虎變,其文炳也。君子豹變,其文蔚也』(大人、虎変す、その文や炳なり。君子、豹変す、その文や蔚なり)という言葉がある。この意味するところは、『物の道理の分かった人であれば、過ちがあれば、ぐずぐずせずにきっぱりかつ速やかにその過ちを修正する』だ。過ちを犯さないにこしたことはないが、過ちだと分かった時の対処にしかたに、その人柄や器量が表われると、言っている。ちなみに、論語ではこの趣旨は次のような言葉で表現されている。
『過則勿憚改』(過ちては、則ち改むるに憚るなかれ)
一方、同じような諺はギリシャ・ローマにも見出すことができる。ギリシャ語では、Poulupodos noon ische, と言い、それを直訳したラテン語では Polypi mentem obtine, という。何れも『タコの智恵を持て』という意味である。タコは敵に追いかけられ、逃げ場が無くなった時に、近くの岩にへばりつき、自分の体の色を岩とそっくりの色に変化させて敵の目を欺くという。タコは変身することによって、危険から身を守ることができるのだ、とこの諺は説く。
つまりギリシャ・ローマで『タコの智恵を持て』というのは、周囲の状況に合わせて言うべきことを変えよという意味で、機転の勧めと言えよう。したがって、上の中国の諺でいう過ちを改めるというようなニュアンスはここでは薄い。
ところで、エラスムスはこの諺を Adagio という本で紹介しているが、風見鶏のように意見をころころと変えるのは彼の信条に反したのか、この諺を紹介したあとで、次の文句を付け加えている。
Stulum perinde atque lunam immutari,
Cum sapiens solis exemplo sui semper sit similis.
(愚者は月の如く変転極まらず。賢者は太陽の如く恒常なり)
エラスムスは流石、ルネサンスを代表する文人だけあって、皮肉がばっちり効いている。この一連の文章から、眼力のある読者は、エラスムスの意図は、実はタコの浅智恵をあざ笑っていることを了解する。おっとっと、こういうと気に障る政治家が某国には幾人か、いそうだからこの辺で切り上げることにしよう。