限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【麻生川語録・22】『一行の書』

2010-12-21 23:00:32 | 日記

一字の師という語句がある。その昔、唐の鄭谷が、斉己の詩を読み、僅か一字を直しただけで、詩情が断然格調高くなった。それで斉己が感嘆して、鄭谷を師と仰ぐようになったと言われている。

その詩は、『早梅』というタイトルが付けられている。

早梅   唐・齊己

萬木凍欲折,孤根暖獨回。(万木、凍りて折れんとす,孤根、暖やかに独り回る。)
前村深雪裡,昨夜一枝開。(前村、深雪の裡,昨夜、一枝開く。)
風遞幽香出,禽窺素艷來。(風逓(めぐ)り、幽香、出ず,禽窺い、素艶、来たる。)
明年如應律,先發望春台。(明年、律に応ずるがごとし,先発し、春台を望む。)

第4句の『数枝開く』を『一枝開く』と直したのだ。

詩の意味は、雪深い寒村に漸く春がやって来た。その気配が寒梅の感ずる所となり、ようやく一枝の蕾が開いた。春が訪れたときにわずか一枝だけが咲いたとする方が数枝が一斉に咲いたというより詩情がある、と鄭谷が指摘したのだ。

一字を直すことで詩が引き締まると言えば、推敲の故事もそうではないか。賈島が『僧推月下門』(僧は推す月下の門)の『推(おす)』と『敲(たたく)』のどちらが良いかを迷っていたのを、通りかかった韓愈が『敲(たたく)』の方が良いと断定したのも同じく一字の師と言えよう。



さて、【麻生川語録・21】『教養係数』にも書いたように私は毎月少なからぬ数の本を購入している。しかしその本の選び方は、とても人様の参考になるやりかたではない(と、言いながらここで書くのであるが。) 書評や人からの評判で買うのもあるが、大抵は本屋(時には図書館)で並べられている本をざっとみて気になるタイトルがあれば、実際に手にとって中身をざっと見る。ぱらぱらとページを繰ってみて、大体の雰囲気を掴む。それに要する時間は数秒から数分であるから、実に雑駁なやりかただと思われるかもしれない。しかし、その時にどこかひっかかる文章があるとその前後は少し丹念に読む。そして、もし一行でも心に訴えるものがあるなら、一応は購入の対象になる。これが私のいう『一行の書』の由来である。ここで言う『書』は書蹟という意味ではなく書籍の意味である。

一字千金をもじって言えば、一行千円ということになる。

わずか一行のために金を投じて本を買うのか、と訝る方もいるだろう。私も初めからこういう買い方をしていたのではなかった。本の中に気にかかる文章を見つけても、『数行の文なので、買わずに覚えて帰ろう』と考え脳に刻み付けるように読んで、その本はまた棚に戻した。暫くして、その文が気になり、正確にどう書いてあったか、前後関係はどうだったか、と思い出そうとしてもどうしても分からない時が何度かあった。それで再度、書店あるいは図書館に出かけてその本を見る羽目になる。ところが、題名も覚えていないときにはその本を探すところでかなり手間取る。何回かこういった失敗を繰り返したのち、到達したのが、『一行でも気にかかる文章がある本は自分に縁があるのだから買っておく方がよい』という考えなのだ。

ただ、これを愚直に実行すると家の中が本だらけになる。実際、現在私の家には未読の本が(多分)千冊近くあるので、最近はなるべく書店に近づかないようにしようと思っているのだが、これがなかなか難しい。麻薬中毒者がいつまでたっても、麻薬が止められずに世間を騒がすのと、心情的には大差がない。

コメント
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