【ベンチャー魂の系譜 9.明治のベンチャー(三菱、安田、大倉、渋沢)】
モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:
いのっち (総人・1)
Alice (経・1)
A:聴衆
(前回から続く。。。)
【岩崎弥太郎について】
(SA):岩崎弥太郎は、どのような人であったか?
いのっち:1835年生まれで、家は貧農であった。お爺さんが、借金まみれであった。
特に学問ができるわけではなかったが、漢詩だけができた。
(SA):漢詩ができたら、何がメリットにあったのか?
Alice:先人の知恵を学ぶ為。漢文が道徳的なものであった。
(SA):なぜ岩崎弥太郎は、そんなに漢詩に興味があったのか?
いのっち:三国志や水滸伝などを好んで読んでいた。
(SA):明治の初年を考えると、朝鮮、台湾、中国の人たちと筆談する。そして、宴会の席
などで漢詩を作り交換する。日本人同志では、やる必要はなかった。江戸時代に、朝鮮通
信使と日本人で、詩を交換していた。しかし、いつも日本人は朝鮮の使節が作った漢詩には
及ばなかった。なぜ日本人の漢詩はまずかったのか?
Alice:朝鮮のほうが、中国に近いから。教育として、朝鮮は漢詩をより多く取りこんでい
たから。
いのっち:ハングルを使う前は、漢字を使っていたので、漢字に接していた期間が長かっ
た。
(SA):漢詩には、平仄を合わせると規則が厳格にある。日本人は漢詩を返り点つきで読ん
でいるが朝鮮人は音で読んでいた。(伝統的には、吏読(りとう)という方法で漢文を読
んでいたようで、完全な漢文直読法ではない。しかし、平仄が正しく理解できる方法で漢
文を学んでいたようだ。)
日本に来た使節の高官は科挙の合格者であり、科挙に合格したということは相当の学力が
ある証拠だ。岩崎弥太郎は、実は漢詩が大好き。失職したときは、漢詩の先生になろうか
と思っていたくらい。
(SA):ところで岩崎は、何をパッションに事業をやろうとしたのか?
いのっち:欧米列強が開拓した航路を、日本も同じように開拓したいと思った。
(SA):そうだと仮定すると、なぜ彼は海外航路を開拓せずに、日本の航路ばかりを開拓し
ていたのか?
Alice:岩崎は士の人達に不当に投獄されたことがある。そのときに、相部屋だった人が、
商売について教えてくれて、そのとき、自分で商売の道を切り開こうと思った。ハングリ
ー精神が、掻きたてられた。
いのっち:単純に金儲けをしたかった。
(SA):彼は、渋沢栄一と違って、外国に行ってない。一番問題なのは、彼のもともとの身
分が、武士の最下級(地下浪人)で、非常に屈辱を感じていた。そして、常に上位の侍た
ちを見返してやりたいという執念をもっていた。金を貯め見返してやろうと思っていた。
現在では犯罪行為をみなされるようなことも含め、むちゃくちゃやっていた。大倉喜八郎も、
むちゃくちゃやっていたが、どのようなことをやっていたか?
Alice:商人として、いろんな会社を作って、手を広げていたのだが、戦争商人として、名
を馳せた。日清・日露戦争のときに、大量に軍需品などを受注して、納入していた。
(SA):それは、国にとっていいことではないか?もともと、戦争というのは、必要悪だと
思うし、死の商人が悪いというより、戦争を起こす人が悪い。大倉喜八郎の一番すごいと
ころは、幕府側と倒幕側の両方に武器を売りさばいたところ。密輸や、脅迫などもやって
いた。
Alice:拳銃を抜いていることが多い。彼のパッションには、あまり正義感を感じない。
(SA):大倉喜八郎は、血の気が多い。安田善次郎のほうが、善人。安田善次郎は、江戸に
出てきてから、10年あまりで、当時の額で2000両貯めていた。1両を20万で現在価値に
換算すると、4億円。大倉喜八郎は、1/10ぎらいしか貯まらなかった。
岩崎弥太郎のパッションは、とにかく土佐にいるときに侍に馬鹿にされ、また長崎で上士が
金を儲ける才覚もないのに、人の金で遊んでいるのを見て身分制を見限って、自分はビジネ
スをしていこうと考えた。侍が嫌う仕事もしている。
岩崎弥太郎が、一番大きくなったビジネスは?
いのっち:西南戦争の海運?
(SA):台湾出兵のときに、他の会社はこんな危ない事業はできないと断ったが、岩崎弥太
郎は条件付きでやった。岩崎弥太郎の精神は、ハイリスクハイリターン。これだけのリスク
を引き受けるだけの覚悟がある。このような明治の人たちと比較すると、現在の田中角栄や
小沢一郎の数億円程度の金は、ゴミみたいなもの。この程度の金でごたごたするのは、現在
の日本人が政治の本筋を見失っていると言われてもしかたない。
そのバイタリティが、明治という日本を活性化させるためには、当時は必要であった。
(中国では、国家のトップにある政治家であれば、数百億円程度で初めて社会問題になる。)
【大倉喜八郎について】
(SA):大倉喜八郎はどのような人物であったか?
Alice:渋沢と似ていて、500社あまりの会社の設立に関係した。自分の財産は、生きて
いるときに全部使うと公言して、社会事業に貢献した。1回にその当時の100万円を寄付
したりしていた。いまで言うと、1億円くらい。関東大震災のときも、自分の別荘を開放
したりした。食料も供給した。
(SA):当時のお金の価値が分からないことには、その業績も評価できない。当時のお金が
現在価値にしていくらぐらいになるか、ということは常に意識すべき。このためには、物の
値段があれば常にメモしておくことが必要。
例えば、夏目漱石は帝国大学を卒業後、明治28年に松山中学へ赴任している。当時、彼の
初任給が100円であった。当時の1円は私の試算では今の1万円から2万円ぐらいと考えら
れる。すると、彼は年収で2000万円ほど収入があったわけだ。
また、明治の初年に日本政府が雇った、所謂『お雇い外国人』の月給は数百円から1000円
クラスであることから、彼らの年収は数億円レベルと考えられる。こういう人を明治政府
はトータルで2000人ほど雇っている。実際の数字を体感的に考えることが必要だ。
【参考】
【麻生川語録・10】『手触りのある歴史観』
【麻生川語録・15】『手ざわりのある歴史観』
(SA):大倉は集古館というものも作ったのだが、それはどこにあるか?場所は、今のオー
クラホテルの近く。確か、第二次世界大戦にかなり燃えたのではなかったか。
Alice:大震災のとき燃えたと思う。大倉は、何億円被害が出ても構わないが、歴史的に価
値のある造形品が燃えてしまったことに、非常に後悔していた。芸術に関心がある人で、
狂歌に対しては、すごい才能を示した。伝統的な邦楽も、音痴だけど好きだった。
(SA):明治の人の中で、一番の趣味人は、益田孝。益田孝は、いまで言う、国宝級の美術
品を所有していた。益田孝は、骨董品を見る目があるので、非常にいい品物が入ってきた。
金持ちのところに、骨董屋が美術品も持ってくるときは、相手の骨董品を見る目のレベル
に合わせたものしか持ってこない。いくら金があっても、本物が手に入るとは限らない。
益田孝は、それを見る目があった。
【今回のテーマの感想】
いのっち:渋沢は道徳に生き、岩崎は金儲けに生きた。やっぱり、いまドラッカーが言う
ように、人を育てる、つまり道徳を重視するほうが、大事だと思った。
Alice:大倉を軸にしながら調べて、ビックパーソンになるには、肝っ玉が必要。度胸が大
切だと思う。
(SA):彼らは、法律を超越した、メリットを大きくしたものをやっている。いまは、法律
によって、縛られて、委縮していることが多い。また、彼らは、マイナス面もあるが、そ
れ以上に大きなプラスのことをやってのけた。いまは、負の部分だけで評価させがちなの
が残念。田中角栄も、ネガティブな評価をされる面もあったことは確かだが、良い面もあ
った。中国人が田中角栄を評価するのは、そのような点であると思う。
(完)