【ベンチャー魂の系譜 8.江戸のベンチャー(住友、三井、鴻池)】
モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:
バタオ (総1)
ゆうゆう(農・1)
マルチン(人環研究生)
イソノ (農・1)
A:聴衆
(前回から続く。。。)
【三井家について】
(SA):三井とは、どういう人達か?発祥の地は?
イソノ:発祥の地は松坂。当時松坂は、近畿の商業の中心地。
(SA):伊勢参りに来る人で、松坂は栄えた。それで、松坂にずっといたのか?
イソノ:その後、江戸に店を出して、呉服店の越後屋を始めて、それが大当たりして栄え
た。また、京都にも支店を出すなど、発展していった。
(SA):外国人が書いた本などでは、江戸時代は、士農工商の身分制度があり、移動が不可
能であったと書いている人が多くいるが、それは大ウソ。武士は、藩を出るときは、必ず
脱藩をしないといけないが、町民はかなり自由に移動していた。また、百姓も次男などは、
江戸や京都などに、頻繁に移動していた。そのように、非常にflexibleな社会であった。
ところで、越後屋をずっとやっていたのか?
マルチン:三井高利が若いときから、商売に非常に興味があった。彼のお父
さんが、松坂でお酒などを売っていた。高俊のお兄さんが江戸にいて、お兄さんに学ぼう
として、江戸に行った。高利はあまりにも才能があって、兄たちがが怖くなって、また松
坂に戻した。その後、また江戸に行って、日本橋に呉服店を開く。三井の特徴的なところ
は、誰もやっていないことをやっているということ。例えば、呉服店の場合は、江戸時代
の呉服店は、戸別に訪問して、注文を聞いて、その商品を作り、渡して、お金を徴収に行
っていたが、三井高利は、まったく違うことを考えた。最初に商品を作って、そこから売
り出すという方法を考えた。すごく簡単で、すごく流行った。
(SA):越後屋から三越には、いつごろ名前が変わった?
マルチン:割とすぐにではなかったか。
(SA):江戸の始めのときに、すぐ三越に名前を変えた。そのときによく言われるのが、現
金掛け値なし。そこにある二つのポイントは、現金払いであるということと、交渉の余地
なしということ。当時、世界のどこを見渡しても、掛け値なしというシステムは、存在し
なかった。これは、イノベーションであった。値札をつけた。
ところで当時は、普通はどのようにお金を支払っていたか?
イソノ:当時は、年2回の一括払い。
(SA):盆と正月に集金に行っていた。大晦日までに回収できなければ、払わなくてもよい
という不文律があった。(参照:西鶴の『日本永代蔵』や『世間胸算用』)
また、売り買いに交渉がなかったことが、三越の強み。交渉があれば、丁稚は物を売れな
いが、交渉がなければ、丁稚でも物を売ることが可能。非常に画期的なシステムであった。
それで、三井は、ずっと江戸にいたのか?
マルチン:息子(高平)に商売を託して、京都に移動した。
(SA):江戸に行ったのは、1673年で、三井高利が京都に拠点を移したのは何年?
マルチン:1700年くらいではないか。
(SA):1680年か90年ごろ。(正しくは1686年)
なぜ京都に店を出そうとしたのか?
イソノ:京都は生地の産地。京都近辺は、織物産業が盛んで、それを仕入れて、江戸に持
っていくため。
(SA):それでは、江戸と京都では、どっちが本部であったが?
イソノ:おそらく、総まとめは京都にあった。
(SA):江戸で成功したのだが、京都のほうが本店になってきた。そこの地下には、今でい
う300億円位のお金が金庫に眠っていた。
【鴻池について】
(SA):鴻池とは、どういう人であったか?
マルチン:伊丹のほうで、酒を作っていた。
(SA):酒は儲かるのか?
マルチン:違う種類の酒を作って、売るというよりは、鴻池が江戸まで運び始めたのがポ
イント。
(SA):そのときに運んだのが、清酒。この清酒はどうやってできたのか?昔から、日本で
は清酒は存在していたのか?
マルチン:濁り酒ならあった。
(SA):なぜ濁り酒であったか?
マルチン:フィルターなどの技術がなかった。
(SA):濁り酒から、清酒にするには、どういう技術が必要であったのか?また、なぜ伊丹
や伏見で作った酒を、馬に乗せて、あるいは菱垣廻船で江戸まで運んで、売ったのか?
それは清酒が特殊製法であったからである。
イソノ:当時は、大阪や京都のほうが文化の中心で、ブランドがあったからではないか。
(SA):ブランドがあっても、味が悪かったら売れないのではないか?実は、清酒が作れた
のが、西宮が良質であった。
マルチン:水がポイントではないか?
(SA):では、なぜ西宮にいい水が存在するのか?
ゆうゆう:六甲山の影響?
A:海や港が近いと、輸出しやすいという理由もあるのではないか。また、山も近い。
マルチン:酒は、日本全国どこでも作られていた。
オバタ:灘は、もともと酒がたくさん作られていた。
(SA):日本人が持っているこだわりを理解すると、日本文化の本質がわかってくる。
マルチン:関西には、もともと酒を作る伝統があったのではないか?
(SA):実は京都の話と、灘の話は、別の問題。京都の場合は、室町時代に、京都市内の四
条通りを中心にして造酒屋が非常に多かった。しかし、応仁の乱で、市内の建物がかなり焼
けてしまった。それで造酒屋も伏見に移った。現在でも、伏見には良質の湧き水がある。
さて、西宮と灘の水を比べると、西宮はいい水が取れる。西宮の、海から1kmぐらいの所で良い水が湧き出ている。西宮の水は、宮水と言われ、鉄分の少ない、酒を造るには良質の水だ。酒の酵母が発酵するのに必要なミネラルも豊富に含む。さて、酵母が発酵するとでき、ヨーグルトみたいになるが、そこに灰、つまりアルカリを入れると、清酒になる。
それはたまたま、鴻池で働いていた若者が、仕事を辞める間際に、腹いせに酒に灰を入れたことから、発見された。その後、鴻池はこの秘術を使って、清酒を独占して製造していたが、その内に情報が知れ渡った。
(追記:清酒にまつわるこの話は、ウソである、というのが、『日本の酒』P.225に記述あり)
ヨーロッパビールの話だが、16世紀ぐらいまでは、ビールは陶器で飲んでいた。それ
から、ガラスの瓶で飲むようになったのだが、濁っているビールよりも、ピルスナービー
ルという、いまのビールのような透き通ったビールが見栄えがよく、売れるようになった。
マルチン:最近では、ヨーロッパでは、濁っているビールを探して飲んでいる。
(SA):それと、清酒を関西から関東に運ぶとき、どうやって、腐らないようにしたか?
バタオ:煮つける。
イソノ:蒸留して、アルコール濃度を高める。
(SA):実は、パストゥールがポイント。パストゥールとはどういう人か?
イソノ:細菌を発見した人。
(SA):パストゥールは、細菌を発見し、滅菌の方法も発見した人。フランスのワインが菌
にやられてとき、黴菌を殺すために、低温殺菌法を考えた。60度ぐらいで、数分暖める
と滅菌される。その方法でフランスのワインは助かった。江戸時代、同じようなやり方で
殺菌した酒を、江戸に運んでいた。
【住友について】
(SA):住友とはどういう人であったか?
マルチン:住友政友は、武家の家に生まれたが、父が武家を止めるように言い、涅槃宗の
仏門に入った。その後、涅槃宗が天台宗に吸収されたときに、坊さんを辞め、京都の四条
で書籍と薬を扱う、店を開いた。商売をいろいろ考えていたのだが、同じく仏道修行をし
ていた、蘇我理右衛門さんが、お金などを出していろいろ手伝った。蘇我さんは、精錬技
術を中国人から学び、南蛮吹きを行った。
(SA):南蛮吹きとは、何をするのか?
マルチン:日本の銅は、たくさんの銀を含んでいるので、日本の銅のから銀を取りだした。
(SA):どうやって、銀を取りだしたか?
イソノ:粗銅を鉛といっしょに加熱すると、鉛が金や銀を含んで出てくる。
マルチン:空気を与える。
(SA):(当日、銀を取り出すのは鉛ではなく、水銀であったと思うと述べたが、鉛が正しい。)
当時、中国人はそのような技術を知っていた。
蘇我さんと住友さんは、ただのパートナーであったか?
マルチン:お互い親類関係になるくらい、親密であった。
(SA):基本的には、住友は京都発祥だが、その後どこへ行ったか?
マルチン:大阪に行った。
(SA):当時、大金持ちになる方法は、両替商となることであった。例えば、安田のように
幕末で財をなす手っ取り早い方法は、両替商になることであった。
しかし、なぜ両替商は儲かったか?
イソノ:当時、金、銀、銅の銭の両替が頻繁で、手数料を取って儲かった。
(SA):どういう仕組みで、手数料を払ってまで、それを買いたいと思う人がいたか?
バタオ:兌換貨幣による。お金の価値が、金や銀によって決まる。
(SA):江戸時代、金や銀の交換価値の割合は、固定されているので、交換しても価値は変
わらないのではないか?
バタオ:金貨の金の含有料が変わるので。金の含有料が減ると価値が減る。
(SA):金銀銭の相場がたち、時と場所によって若干変動していた。また、江戸と大坂という、
二つの経済圏での商売は、現金ではなく為替でやりとりをしていた。両替商では為替を現金
化する際、手数料を取っていた。安田善次郎などは、両替商で、5年間で現在価格にして
2億ぐらい儲けている。両替商は儲かる職業であった。しかし、幕末になると、幕府から
冥加金が取り立てられ、豪商が何軒か潰れた。
(SA):三井、住友と鴻池を比べると、前者の2社は、創業以来、ずっと本業を続けている
が同時に、多角的な発展をしている。とりわけ番頭が優秀で、時代の趨勢を良く見ている。
この点では、鴻池は江戸時代は天下一の金持ちと言われながら、幕末の動乱期に人を得な
かった。企業の盛衰を見ると、太平時には、人事の差は大きくはでないが、混乱期には乗り
切れる人が舵取りするかどうかで、会社の運命は大きく変わる。老舗といえども単に伝統を
守っていけばよい、というのではなく、常に革新的なベンチャー魂が要求される。
(完)