【ベンチャー魂の系譜 10・昭和のベンチャー(小林一三、和田一夫、盛田昭夫)】
モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:
はせじゅん(経・4)
A:聴衆
(前回から続く。。。)
【和田一夫について】
(SA):和田一夫はどのような人か?
はせじゅん:世界的な八百屋を作った人。名前は八百半。
(SA):お父さんの代から、八百屋をやっていた。お母さんはどのような人であったか?
はせじゅん:「おしん」の母親のモデルの人。
(SA):和田一夫は、八百屋を継いでどうなったか?
はせじゅん:八百屋を継いだ後、静岡では競争が激しくなってきて、ブラジルに進出した。
(SA):では、なぜブラジルに行こうと思ったのか?
はせじゅん:盛田昭夫さんの「すきま理論」を真似て。どんなところにもチャンスがある
と考えた。すきまを見つけて、突っ込めと考えた。
(SA):すきまだったら、ブラジル以外にも世界中でいっぱいあるのではないか?
はせじゅん:日本とブラジルが仲良くて、他の国よりは事業をやりやすかったのではない
か。
A:日本の正反対の位置にあるから。おもしろいと判断したから。
A:日本と似たような作物が取れるのではないか?
A:ブラジルには、多くの日本人の開拓民がいたので、現地の日本人に貢献できると考えた
のではないか。
(SA):日本人は、ブラジルにどれくらいいるのか?
A:10万人くらい。(追記:当時100万人~150万人住んでいると言われていた。)
(SA):その人たちは、ブラジル全土に住んでいるのか?
A:サンパウロか、リオネジャネイロあたりではないか。
(SA):サンパウロに多く住んでいる。リオネジャネイロは、もともとはブラジルの首都であ
った。首都に関してのブラジルの歴史は?
A:北部を農村ばっかりで、ほとんど発達していなかったので、開拓するためにブラジリア
という首都を北に作った。
(SA):ブラジリアを作るために何をしたか?
A:熱帯雨林を開拓した。
(SA):アマゾンの熱帯雨林を開拓して、外資を稼ぐ為に、ブラジリアを作った。ところが、
アマゾンの熱帯雨林は本来は木は茂りやすいところか?
A:層が薄く、土に栄養分があまりなく、一度切ってしまうと、その後は植物が生えにくい。
(SA):ブラジルの土は、酸性が強く、表土が50cm~70cm。そこだけに根が生えるこ
とができる。ブラジルの産業は、本来ならばプランテーションなどに向いていないはずであ
る。日本人は、ブラジルに労働者として開拓に行った。ほとんどの日本人は、いまサンパウロ
にかたまっている。和田一夫さんは、サンパウロの同胞の日本人のために、ブラジルでも八百
半を開店しようと考えた。利益というより義侠心の為に行った。和田さんは、情の人。ブラジ
ルの八百半は、結局どうなったか?
はせじゅん:結局潰れている。
(SA):10年足らずで潰れてしまった。その後、どうしたか?
はせじゅん:1984年ごろに、香港に行った。
(SA):和田さんはどうして中国に行ったのか?この人は、ブラジルに行ったり、中国に行
ったり、フラフラしているのか?人間のプリンシプルに気づかないと誤解してしまう。
はせじゅん:和田さんは香港の人に助けらたので、その人たちの生活が向上させたいと思
った。
(SA):しかしなぜ香港で店を開こうとしたのか?当時の中国は、小平の開放政策が発表さ
れた直後で、ビジネスを行うのは、非常に困難ではなかったのではないか。企業は利潤追求
が目的なのに、何故過大なリスクを負うことを決めたと考えられるか?その後の上海進出も
含め、中国ビジネスは冷静に考えると、ハイリスク過ぎたのに、なぜ和田さんは中国に出て
行ったのか?
A:先ほどの「すきま理論」を適応して。
(SA):売上の見込みを計算してやったのか?MBAとか、数値を元にしたビジネスは、まわ
りの「商圏」を調べて、儲かるという計算があって出店している。和田さんは、昭和5年
ぐらいの生まれ。戦争中、日本軍がシンガポール、ビルマなどに侵攻していった。当時の
中国人に対して、迷惑をかけたと思っている。蒋介石は、日本軍が負けて帰ったときに、
日本軍を叩かず、賠償金も取らずに、仇を恩で返した。和田さんは、中国に恩返ししたい
と考えていた。中国に成算があって、出て行ったとは考えていない。当時の中国の環境が
リスクが大きく、利益も国外持ち出しが許されていなかった。そうしたら得た利益はどう
するか?
はせじゅん:中国国内で事業を拡大するしかない。
(SA):そのような状況で進出して、中国で一番大きなスーパーマーケットを出している。
そのスーパーマーケットには、人が来たがどうなったか?
はせじゅん:あまり売れなかった。口に合わなかったのではないか。
はせじゅん:日本人が嫌われていた。
A:おそらく、消費するという文化がなかった。
A:中国人が必要としているものの確保が出来なかった。
A:イギリスなど先進国のデパートが参入してきた。
A:原価と売値がほとんど変わらなかった。
(SA):物の値段が高かった。今から20年前、日本と中国の物価差は30倍ぐらいあった。
20倍かわると、ものの見方がかかる。
(参照ブログ:【麻生川語録・14】『20倍違うと世界が違って見える』)
(SA):日本から持ち込んだ商品は非常に高かったので、来店した中国人は遊園地の感
覚で、見に来るだけで物は買わない。ところで八百半はなぜ倒産したのか?
はせじゅん:信頼がなかったというか、5人兄弟の弟が経営に失敗してしまった。
(SA):弟だったら、なぜ兄貴に相談に来ないのか?
はせじゅん:小さいころから、兄貴がヤオハンを引っ張っていっていて、弟は兄貴に負け
たくないと思っていた。弟は粉飾決算していること兄に隠していた。実際の数字とは違う
数字を、業績としてあげていた。
(SA):人間を動かすときのモチベーションの大切さを表している。ダメな情報がすぐ上が
ってくる会社がいい会社。私は和田さんが全てを清算したあと、数年して講演を聞いたが、
和田一夫さんは、自分の責任だと言っていた。No.2(自分の信頼できる右腕)を作れない
人はダメ。誰か倒れてもいいように、ペアを組んで仕事をすることが大事。仕事の際は、
重要なことを文章して伝達すべし。最終的に倒産したときに、和田さんは、数百億円もの
私財を全て出した。これはすごいことだ。倒産した企業の経営者などは、資産を没収され
ないために、誤魔化したりするのが当たり前だ。八百半をたたんだ後は、どうなったのか?
はせじゅん:次に何かをやる人に、自分の経験を持って支援したいと考えた。そこで、日
本にシリコンバレーを作りたいと思った。Javaを使える人をたくさん作りたいと思い、福
岡県の飯塚市をシリコンバレー化することを思いついた。
(SA):福岡は、韓国が近い。飯塚市にある九州工業大学は山川烈教授のファジー理論で非常
に有名だった。そこで、飯塚市にソフト産業をつくることを思いついた。
はせじゅん:求めているものを作ろうとしたというより、真似しようとしたのではないか。
(SA):飯塚市のシリコンバレーは、結局上手く行かなかったがその原因は何か?ベンチャ
ー企業を考える場合、「Habitat」が大事。飯塚市には、若手のエンジニアが快適と感じる
生活環境が存在しない。世界のベンチャーをみても、エンジニアが快適と思う生活環境があ
るところに生まれている。日本のベンチャーの「Habitat」はどこにあるのか?
A:東京からのベンチャーが多い。
A:コストがかからないところではないか。
A:今、現在必要な情報が日々入ってくるところ。また、投資をしてくれる人がいるところ。
(SA):ベンチャー会社の社員というのは、20台後半から30台がほとんど。
A:土地が安い、家賃が安いところではないか。
(SA):ベンチャーをやる人達の、娯楽が重要。若い人の「Habitat」は、夜遅くまで働いて、
その後飲みに行けるところが必要。さらには、ゲームセンターで遊べて、コンビニが近くに
ある場所。ビジネスに必要な、人、物、情報の蓄積は、東京が圧倒的である。感覚的に最先
端のビジネスは全国の内、東京がその8割で、大阪を含めその他は2割ぐらいといえる。
堺屋太一氏の本には、戦後、業界団体の本部を強制的に東京にもってこさせた、東京一極集
中の大きな原因だったと指摘している。
1923年、関東大震災の後では、東京から大阪に移ってきた人が多くなり、大阪が日本一の人口
を誇っていたが、上に述べた通産官僚の指示で東京にビジネスが集中し、東京一極体制がで
き上がってしまった。
(SA):和田一夫氏の成功から、倒産、再起の過程を見ると、本人が情の人であるのがよく分
かる。その一途な性格が大きなプラスな成果を生み、また逆に大失敗の原因ともなっている
ことが分かる。我々が彼から学ばなければならないのは、成功の過程より、むしろ倒産に際
して全く逃げることなく、誠心誠意対応したその潔さであり、かつ70歳を過ぎてからのゼロ
からの再起という不屈の精神である。社会的に成功したかどうかという観点でみるのではな
く、ベンチャー魂のありなしで見ると、和田一夫氏は昭和の偉人の一人と私は個人的には
考えている。