限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【2010年授業】『ベンチャー魂の系譜(9)-- Part1』

2010-12-02 14:31:15 | 日記

【ベンチャー魂の系譜 8.江戸のベンチャー(住友、三井、鴻池)】

モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:
バタオ (総1) 
ゆうゆう(農・1)
マルチン(人環研究生)
イソノ (農・1)
A:聴衆

今回のテーマは、以下の人が対象となる:
住友家
三井家
鴻池家
二宮尊徳
石田梅岩
伊能忠敬

【図書の紹介】

石川謙校訂 「鳩翁道話」(岩波文庫)
 (SA):江戸時代の時代劇などを見ても、当時の感覚はわからない。それは、脚本家が、現
代の感覚脚本を書いているから。また、現代の日本人は、人を説得したりすることや、論
法が下手。この本は、旧漢字で書いてあるので現代の若者はほとんど読めないだろう。
ちなみに、常用漢字を3000字に限定するのは間違っている。7000字ぐらいまで増
やすべきである。明治から戦前にかけては、字数制限なしで暮らしていた。中国は、高校
卒業までに7000字を学ぶ。そうでないと生活ができない。今の常用漢字の範囲では、少
なすぎて過去の文書がコンピュータに文書蓄積できない。例えば、「禁錮」という漢字。
今回の常用漢字表の改定まで、この漢字の『錮』は、ひらがなで書くしかなかった。
いまのコンピュータの発達を考えると、正字体の漢字を採用して、振り仮名をふればいい。
明治時代の書物を見ると、難しい漢字を使ってあるが、振り仮名が振ってあるので、小学生
でも読める。
マルチン:当用漢字はどれくらい?
(SA):当用漢字は、昔の言い方。1800字位。その後の常用漢字、2000字位。戦後こ
のような制限をかけてきた。これは失策と私は思う。同様に、中国の簡体字は失策だ。
北朝鮮と韓国で、漢字を無くしたことも同様。もっともっと漢字を増やすべき。

二宮尊徳「二宮翁夜話」(岩波文庫)
(SA):この本を見ると、二宮尊徳はかなりの弁舌家。残念なことに、昔は二宮翁の像は小
学校から無くなりつつある。二宮翁は自分の墓を作るなと言って死んだが、どうなったか?
ゆうゆう:木を植えた?
(SA):結局、妻と弟子が立派な墓を作った。彼の言葉の真意が全く理解されていない。
162ページに、世間の救貧を救うアイデアが書いてある。お金をばら撒けばいいと言うのは、
間違いだ、二宮翁はこう言っている。人々が奮発、勉学に努めるようにお金を使えと言って
いる。お金をばら撒けばいいとは間違い。このような精神が、完全に欠けている。

邦光史郎「三井王国・上下」(集英社文庫)
邦光史郎「住友王国・上下」(集英社文庫)
(SA):邦光さんは、司馬遼太郎と同様に、史料を丹念に読んでいる。内容が正しい。そして、
時代の流れなどを、事細かに書いている。この中に出てくるのが、江戸時代の日本の輸出
の8割が銅であったと書いてある。その銅の三分の一が、住友が別子銅山が産出した。
そういう意味で、この人の本は、小説だが、ドキュメンタリーに近い。

三上参次「江戸時代史・上下」(講談社学術文庫)
(SA):合わせて1000Pぐらいの分厚い本。この本は、小説ではなく時代考証をしたもの。
我々が水戸黄門などを見たときは、時代背景などが、ドラマとセットなので正しくない。
ところが、当時江戸には、日暮門というのがあり、見学人がまるまる一日それをみる、素晴
らしい欄間が数多くあったった。このように、ドラマやテレビからでは分からないことが
書かれている。

伴蒿溪「近世畸人伝」
(SA):下ネタも含んで、たくさんおもしろいことが書いてある。これも旧漢字で書いてあ
る。編者の森銑三は、近世日本文学のことを非常によく知っている。しかし、残念ながら
小学校しか出ていないので、世間からはあまり評価されなかった。知る人ぞ知る、井原西鶴
の研究の第一人者。

「日本の名著(シリーズ)」(中央公論)
(SA):このシリーズが、日本の思想を理解する上では、簡便。すべて新漢新かなであるし、
すべて現代語訳がついている。一通りわかりたい場合は、これを読むのがオススメ。石田
梅岩や、富永仲基は特に高校で習わないので、この本などで知るのがいい。富永は31歳
で死んでいるのだが、仏教というのは全部作り話で日本に来てから話が膨れていったと書
いている。富永は大阪の町人であり学者なのだが、これを評価したのが内藤湖南であった。
私は学生時代には、日本の思想にはあまり興味がなかったが、外国に行ってから、日本と
は何かということに興味を懐いた。現代、我々が得ている知識は非常に現代風にアレンジ
されている。外国から来た料理に砂糖を入れて、日本風にアレンジしてあるのと同様だ。
ちなみに、戦後直後、すき焼き屋にアメリカ人を連れていったとき、肉の上に砂糖を入れ
るのを見て、アメリカ人がびっくりし、それから一切すき焼きを食べなかった、というエ
ピソードがある。

サミュエル・スマイル(中村正直訳)「西国立志伝」
(SA):この本の中村正直の翻訳はすばらしい。中村正直は、30歳ぐらいのときに、イギ
リスに行き、2,3年で英語を学び、ほとんど完璧に訳している。当時、新しい英語に関
する、英語と中国語の辞書があったのだが、それを使って、彼はわからない単語を英華辞書
も使いながら訳している。旧態な表現が数多くあるが、ここまで訳せるのはすごい。バタ臭い
訳ではなく、うまい日本語で書いてある。その意味で、この本を一回読んでみることを勧め
る。内容としては、イギリスはなぜ、産業革命で成功したのかが書いてある。

宮永孝「慶応二年幕府イギリス留学生」(新人物往来社)
(SA):正しい記録ではないが、小説風に書いてある。当時の留学とは、我々が考えているよ
うな簡単な留学ではなかった。

渡辺一郎「図説 伊能忠敬の地図をよむ」(ふくろうの本)
(SA):この伊能図を作るために、彼はいっぱい小道具を持っている。ひとつは、巻尺。あ
と、角度を測る器械など。三角測量をして、距離を出した。

【このテーマを選んだ理由】
バタオ:もともと違うテーマを選んでいたが、体調が悪くなって、先生にこのテーマを頼
まれたから。高校時代、世界史選択で、日本史には疎かったが、伊能忠敬は知っていたの
で。
ゆうゆう:伊能忠敬や二宮尊徳は、もともと知っていたが、より詳しいことを知りたいと
思ったから。
マルチン:三井住友のクレジットカードを持っていたから。日本に来て、三井住友の名前
や、財閥などを聞いたりして、より詳しく知りたいと思ったから。
イソノ:主に、三井について、あと住友について調べてきた。商売に興味があり、どうし
てそのような成功をしたか知りたかった。




【伊能忠敬について】
(SA):伊能忠敬はどういう人であったか?
バタオ:もともと商人の家系。天文学などに興味があり、後に日本全国を測量した。天文
学は20歳から学んでいた。(本当は、名主の家に生まれた。)
(SA):どのような先生に師事していたのか?
ゆうゆう:高橋至時に師事していた。
(SA):高橋至時は、どのような人?
マルチン:蘭学で天文学を学んでいた人。
(SA):高橋至時は、蘭学と天文学を学んだ。日本の天文学が、元来、中国からきたのは、
暦の関係。暦というのは、農耕の為に使った。また、農耕の為以外にもうひとつ、必要な
理由があった?それは何か?
バタオ:戦のため?
マルチン:仏滅など。月と星の影響。
A:納税をする日にちを決めたかった。
(SA):この暦は、江戸時代に3回ほど大きく改訂されている。それは、ある目的の為であ
った。つまり、昔から暦とは、日食と月食が当たらなかったら改定している。日食と月食
とが当たらないと、天文学者が計算し直す。しかし、月と太陽は単純な円運動ではないので、
三角関数を計算しながらやらなければいけなかった。つまり、学者が一生かけてもできない
ような大仕事であった。
ところで、伊能忠敬は、何の為に、日本を測量をしようとしたのか?
ゆうゆう:最初は、日本全国を測量することが目的ではなく、江戸のある地点を測量する
のが目的であった。
(SA):それは、何の為に測量したのか?測量は、測ったらお終いではないか?当時には、
もう地図はあったのではないか?なぜわざわざ天文学使って、日本全国を歩き回り、地図
を作ろうというパッションが、伊能忠敬にはあったのか?
ゆうゆう:暦の学者に間で、地球の大きさというのが話題であったから。
(SA):なぜ地球の大きさが、話題となったのか?
ゆうゆう:当時、江戸時代に地球儀があって、そういうものを見たら、本物の地球の大き
さを知りたくなったのではないか。
バタオ:天体について、特に金星について興味があったからだと思う。金星の軌道を発見
するなどの、史実を読んだことがある。
(SA):それは、純学問的なものであったか?それは好奇心でやったのか?
マルチン:江戸時代の日本は、ナビゲーションということができなかった。南蛮人や、中
国人はできたが、当時の日本人はできなかった。街の地図があったとしても、それはだい
たいの地図であり、天文学と地理学を用いる正確な地図はなかった。蘭学の影響で、ちゃ
んとしたものが作りたかったのではないか。
(SA):ナビゲーション(航海)に関していうと、室町時代の1500年の頃から、日本か
らフィリピンに行くことができた。しかし、江戸幕府が鎖国をしたことによって、その技
術が途絶えてしまった。日本に航海術がなかったわけではない。江戸幕府は、マスト二本
以上の船を作るのを禁止した。これにより、航海技術が途絶えてしまった。しかし、当時
の日本は、南蛮人から地球儀を見せられて、いろいろ話を聞くと、非常に興味を示した。
ラランデという西洋の天文学者によって、星の位置関係によって、自分の位置がわかると
いうことが、日本にも、蘭学を通じて伝えられている。それを使ったら、理論的には三角
法で地球の大きさを測ることができると分かった。伊能さんは、高橋至時に助言を受け、
江戸と秋田くらいの距離の2点を測らないと難しいのではないかと思い至った。
最終的には、彼は地球の大きさを図ったのか?
オバタ:江戸との距離を測って、計算した。
(SA):そのときの精度は、どれくらいであったか?
オバタ:9割がたの精度であったのではないか?
ゆうゆう:そこまではわからない。
(SA):実際は、99.9%あたっている。実は、地球の大きさは、紀元前のギリシャでも、
90何%あたっている。地球の大きさはもともと数字ありきであった。伊能忠敬は、もっ
と正確に測りたいと思った。
ところで、伊能忠敬は、最終的に測量を開始するまでの50歳まで何をしていたのか?
ゆうゆう:商売人としての家業をしていた。
(SA):米や醤油など売る、仲買人をしていた。現代でいう問屋。彼は、婿養子であったが、
資産を増やしたのか、それとも増やしたのか?
オバタ:莫大に増やした。
(SA):莫大でいうのではなく、数字で答えてほしい。当時の数字を、現代の数字で換算す
べし。私の換算によると、彼が婿養子に行ったときは、資産は現在価値にして3~5億円で
あった。妻が亡くなり、息子に代を譲ったとき、70億円まで増やした。それで誰も文句
は言えなかった。ちなみに、当時の平均寿命は何歳ぐらいであったか?
マルチン:65歳くらい。
(SA):60歳くらいであった。彼は、50歳まで現役で働き、その後測量に当たった。今で
いうと、75歳くらいまで現役で働き、残りの人生を測量に費やした。そのパッションは凄い。
若いころから、天文には興味があったが、仕事でも堅実に成功しているところがすごい。
マルチン:彼がすぐに測量できなかったのは、お金の問題があったのではないか?
(SA):お金の問題もあるし、江戸時代、日本全国を行き来するのには、関所手形が必
要であり、幕府から許可が必要であった。
伊能忠敬がこのような大きな業績を残せたポイントは彼のパッション。
彼は、50歳までしたいことは、一切せずに、引退してから、初めてとりかかった。最近、
カルチャースクールに引退した人たちが行くが、引退してから、何かをやり始めてもダメ。
おそらく頭がついて行かない。20~25歳までに、一生これをやりたい知的なテーマを
探すべきである。引退してから、何かを始めても、多分つづかない。グルメやコレクション
ではなく、少しハイレベルなものを今から見つけることが大事。

(SA):ところで、伊能忠敬は、50歳くらいから始めて、結局何歳くらいまで、測量を続
けたか?
ゆうゆう:90歳くらいまで続けて、亡くなったしまった。(本当は73歳で死去)
(SA):伊能忠敬の地図は、結局どれくらいの精度があったのか?
バタオ:99.9%正確であった。
(SA):日本地図の全体が必ずしも正しくはなかったが、ほとんど正しい。明治の初めにイ
ギリス艦隊に来た時、イギリス人が自ら測量する必要がないと感じたほど、伊能図は正確
であった。それで、伊能忠敬の地図は、どこに残っているか?
オバタ:日本に残っていたものは焼けてしまって、アメリカに残っている。
(SA):もともとは、どこに残っていたか?
オバタ:皇居と、伊能忠敬が住んでいた実家。関東大震災で焼けてしまって、複製された
ものが、アメリカに残っている。
(SA):どうやって複製したか?
ゆうゆう:薄い紙で、上から移しとった。
(SA):紙を地図に上に置き、上からマチ針で目印をつけ、輪郭を写していった。東京大学
の図書館に寄付されたが、関東大震災のときに、燃えてしまった。大図のコピーが、アメ
リカに200部ほど残っている。

続く。。。

コメント
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