昨年(2009年)に民主党政権が誕生した時には、これでようやく政治も刷新され、自民党時代に累積していた数々の難問(例:沖縄の基地、巨額の累積債務、赤字国債)もやすやすと解決されると期待した人たちもおおかったに違いない。しかし、その期待も、鳩山首相の沖縄の基地県外移設の発言を巡っての思慮の無さが次々と暴露されるに従って急速にしぼんでいった。終には、自民党時代からのアメリカの主張どおり、県内の辺野古の海を埋め立てるという案で政府間合意が成立した。『泰山鳴動、ネズミ一匹』という諺があるが、今回のこのごたごたでは、一歩、いや半歩の前進すらなかったので、シェークスピアの "Much Ado About Nothing" という劇のタイトルの方が相応しい。その後、管首相に変わったが、内実が全く変わっていない。
そういった日本の政治家の不甲斐なさは、中国の指導層からみれば、全く取るに足らない連中だと見られているに違いない。それは、先ごろ(2010年11月13日)APECで胡錦濤国家主席が管首相に対して取った態度に明確に現れている。まるで、出来の悪い生徒に対する教師のような、匙を投げたような態度であった。
中国人というのは、確かに人そのものより、その人の地位やそれに付随する権力を評価する一面はあるものの、最終的にはその人の器量を測って付き合い方を決めていると私は理解している。このことは、中国の歴史を読むと分かるが、人相を観てその人の運勢や器量を言い当てる場面が多くでてくる。その人の学識もさることながら、顔の表情、落ち着き度合い、声の張り、果ては後ろ姿など、多面的な情報からその人の総体を評価している。
中国人が歴史的に培った観相の最大のポイントは、私の見るところ、大事を為す度量にあると思う。つまり、大混乱の中でも落ち着いていられるかどうかだ。それを裏側から表現した言葉が、『疑事無功、疑行無名』(ぎじは功なく、ぎこうは名なし)である。おっかなびっくりでちょこまか動いていては何もできない、という。これは戦国策・趙に見える言葉だ。趙というのは、匈奴と国境を接していて、戦争が絶えない。相手は、騎馬で弓が得意だ。これに対抗するために、武霊王は、趙軍にも胡服騎射させようと思うが、人民の反発を恐れて逡巡している。これを聞いた参謀の肥義が、武霊王の迷いを断ち切るために『疑事無功、疑行無名』とアドバイスし、さらにダメ押しに『成大功者不謀於衆』(大功をなす者は、衆にはからず)と申し添えた。つまり、大きな功績を成し遂げるには、民衆の意見を聞かずに独断専行すべしと。
私は、現代の民主主義は必ずしも最適な政治体制ではないと考えている。時には、良識ある政治家が文字通り命を張って、国のために持論を徹底して遂行することも必要であると考える。