限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第86回目)『私の語学学習(その20)』

2010-09-18 06:43:23 | 日記
前回から続く。。。

【ドイツ語通訳での失敗】

ドイツ語の試験に合格し、1978年4月からミュンヘン工科大学の正規の学生となった。そこで授業の登録を行うためにシラバスをチェックしたが、どの科目も既に京都大学で習ったものばかりで新鮮味を感じなかった。ただ、Semesterarbeit と呼ばれるプロジェクトがあったので、それを取るために指導教官の部屋に行った。プロジェクトの内容は、ある論文に書かれている式を解析的に解くものであった。式をみたところ、それほど難しそうではなかったので、登録することにした。それからは、一週間に一回私が解いた所を説明し、指導教官(Dr. Friedrich)と議論をし、翌週までするべき事を決める。いわゆる、チューターである。

私がミュンヘン工科大学で取った授業はこれだけであるが、この一対一の議論はドイツ人の徹底性を知るには非常によかった。というのは、式の展開が少しでもあやふやな点があると、先に進まずに次週も同じ内容をやり直していかなければならなかった。確かに自然科学や工学は民族性関係なく、普遍性のあるものであるが、やはりドイツ人の徹底性はたいしたものであった。2ヶ月ほどして漸く、結論に到達した。その結論とは、結局この与えられた式は解析的には解けないということが証明された。この結論に達して私は失望した。なぜなら、これでは何もしなかったことと等しいではないか、と思ったからであった。しかし、他に考えようがないので、そのことを指導教官に話したところ、非常に喜んでくれたので、私の方が逆にびっくりした。『解けるというのも一つの解決だが、解けないことが証明され、また何故解けないかの理由が分かるというのも一つの立派な解決だ』と言うのである。これを聞いて、なるほど、こういう見方もあるのだ、と感心した。

この Semesterarbeit は結局、式の展開を全て私がしたが、文章を書く段になって、指導教官にかなり助けてもらった。しかし、評価点は、1が最高、5が最低という5段階評価の、1.3(Sehr gut)をつけて頂いた。後年、この Semesterarbeit がアメリカ留学の時に威力を発揮するとはこの時は思っても見なかった。



さて、ドイツ語の勉強に話を戻すと:

ドイツに一年居るあいだにずいぶんと聞き取りが上達した。ミュンヘンのドイツ語は南ドイツ地方(バイエルン)訛りが強く、発音はいわゆる標準ドイツ語とはかなり異なる。日本で喩えると、東北弁のような感じだ。ラジオの放送も、標準語的には話しているが、強いアクセントなど、訛りがかなり残っている。この点は日本かなり異なる。しかしドイツ語は元来、発音は鋭角的なので、バイエルン方言でも聞き取り力の向上には役立った。

ドイツ語圏の方言の分布からいうと、バイエルンはオーストラリアとよく似ているので、使用人口はかなり多いといえる。スイスのドイツ語もその意味では南ドイツと近いはずだが、スイスドイツ語は単語や発音が完全に異なる。その意味では、中国の北京語に対する広東語(カントン語)のような感じである。従って、スイスのドイツ語圏の人間は、ドイツ語すらいわば学習言語であるはずなのだが、彼らに聞くと、母国語はドイツ語だという返事が返ってくる。

聞き取りはよいとして、口語の中に出てくるスラング単語には困った。スラング単語は意味は分かるもののどの程度砕けた言い方か、あるいは、公の場では使わない方がいいのかどうか分からない。例えば、英語では、『Oh! Come on』という単語があるが、これは、誰かが、つまらないことにいちゃもんをつけた時、『まあ、そんなこといいじゃないか!』というニュアンスの言葉だ。ドイツ語では同じように、『Ach! Komm!』という。しかし、学生仲間ではたまに『 Ach! Geh!』という単語も使われていた。たまたま、ある家族に招かれた時に、この言葉を使ったら、そこの奥さんから、『汚い言葉なので、二度と使わないように』と釘をさされてしまった。 Komm(コム)も Geh(ゲー)も意味的には、『来る(kommen)』と『行く(gehen)』と対して差がないので、私は無邪気に使ったのだが、ドイツ人の中では隔絶した差を感じるらしいことを理解した。

ドイツ語の上達の一つは、文章をかなり多く書いたことが挙げられる。いわば書きなぐりではあったが、日記をドイツ語でつけていた。書いた後で、自分で添削するのだが、徐々に文章が上達するのが実感として分かった。書くというのは、結局話す力の向上にもなり、ずいぶんと会話の能力も上がった。この時に始めて、外国語をスムーズに話せるというのはどういう状態かということを体感した。

これについては、『右脳と左脳のコンビで英語をスムーズに話そう』に書いたが、結論だけ言うと、言うべきイメージが固まっている時には、文章がかなりスムーズに出てくることが分かった。

このように、かなりドイツ語が上達したと自覚が出たときに、ミュンヘンの日本領事館からドイツ語の通訳のアルバイトの話があった。日本の会社がドイツの会社と契約の交渉をしたいというのである。内容は、エンジンの関係らしいということであった。それで、早速エンジンの部品の名前や機械加工の技術用語のリストを作り、一生懸命に覚えた。当日の朝、ミュンヘンの最高級のホテルである Hotel Bayerischer Hof で日本の会社の人と出会った。郊外にある相手の会社まで車に同乗して行った。その道すがら、今回の交渉の目的などを聞いたのだが、肝心の製品は、エンジンではなく、油圧器具であった。それまで、2週間ほどかけて覚えてた単語が全く役立たないことを知り、内心真っ青になった。しかし、ここで引き返す訳にはいかず、交渉の通訳に臨んだ。昼飯も、お互いの話を通訳しなければならないので、自分の食事などはほとんどできなかった。

さて、午前10時から始まった交渉も昼飯をはさみ、延々と4時ごろまで続き私もかなりばて気味であった。交渉自体はお互いにかなり積極的に歩み寄り、最後の条件交渉として数量と価格の話に移った。正確には覚えていないが、確か、私の耳には、"fuenf tausend"(5,000)という風に聞こえたので、『相手は5,000と言っています』と日本側に伝えた。そして次は価格交渉となった。そして、お互いに納得して、漸く終了という間際になって、ドイツ人が『最後に再度確認したいが、我々の購買する量は、fuenfzig tausend だ』と言った。私はびっくりした5千ではなく、その10倍の5万なのだ。私はドイツ人に『えっ、5万ですか?』と聞き返したが、その通りという答えだった。それで、仕方なく、日本側に『先方は5千ではなく5万と言っています』と言うと、途端に日本、ドイツの双方とも大笑いした。購買数が一桁違っていたので、価格も再交渉となったが、お互いに和やかな雰囲気で合意し、早速、仮契約が交わされた。帰りの車の中で、私は、誤訳にひたすら恐縮したが、日本の会社の人が言うには、これほどの内容の契約を一日でできたのは、素晴らしい成果だと、逆に誉めて頂いた。

外国語で一番難しいのは数字だとよく言われるが、このことを身をもって知った次第である。これ以降、ドイツ語、英語に限らず、数字に対しては、常に確実にチェックする癖がついたのは、怪我の功名というものである。

続く。。。
コメント
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