限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第53回目)『効力を失った比喩と効力を失わない比喩』

2010-09-07 07:06:49 | 日記
大阪市という都会に住んでいるせいか、最近めっきり虫が少なくなったと感じる。虫が少なくなると、その連鎖で、それを捕食するツバメ、コウモリ、ネズミなどの小動物も少なくなる理屈だ。また建物が近代化され、溝が地中に埋められてしまっているので、地上で目につくものがコンクリートかアスファルト一色になっている。振り返ってみると私が子供の頃は、田舎はいうまでもなく、都会でも虫や小動物もありふれていて、建物や風景がもっとバラエティに富んでいた。

このような単調な風景になってしまうと、今まで理解されていた比喩(analogy)が意味をなさなくなる。例えば、『蜘蛛(クモ)の子を散らす』というのは、大辞泉によれば、『《蜘蛛の子の入っている袋を破ると、蜘蛛の子が四方八方に散るところから》大勢のものが散りぢりになって逃げていくことのたとえ。』というように説明されている。しかし、実際にクモの子が散るようすを見たことのない子供はたとえ一つ一つの単語が理解できても、この比喩の持つ俊敏な状況を想像するのは不可能であろう。また『牛の涎(よだれ)』も同じく、実物を見ていない子供に意図は伝わらない。

また住居環境が変わってしまったので、『どぶいた選挙』や『井戸端会議』も効力をうしなってしまったと言っていいだろう。また自然環境から隔絶された町中で成長した子供には、『竹を割ったような性格』であるとか『雨後の筍』も、もはや比喩というより謎かけに近いだろう。



つまり、過去に作られたこういった、単に事物を別のもので表現した比喩の効力はもはや現代の子供たちには通用しなくなっているのだ。しかし、比喩にはもう一つの種類がある。それは物語性をもったものだ。例えば、『塞翁が馬』のように、一言で表せないがストーリーをもっているので、その状況は時代背景が変わっても誰でもが納得できる。あるいはプラトンの『洞窟の比喩』のように、人間の認識は通常は現象界の範囲内に縛られているが、哲学者はそれを思索上、超えることができることを、一読するだけでその情景を思い浮かべることができ、比喩の意図する所を読者は理解することができる。

このような比喩は、荘子が得意とする所で、荘子という本には全編にわたって寓言(比喩)が開陳される。荘子の説明によると『寓言十九,藉外論之』、つまり、寓言が全体の90%にも及ぶ、これは他の事に喩えることで言いたい本質を論じる、というのだ。

結局『蜘蛛の子を散らす』のように今やその効力を失った比喩がある一方で、『塞翁が馬』のように未だに効力を失わない比喩があることが分かる。文章を書く時には、この両者の差異に注意を払わないと、思った以上に書いた文の生命が短くなることがある。

ちなみに、日本語ではこの両方に同じ『比喩』という単語を使うので紛らわしいが、英語では前者は analogy といい、後者は allegory という単語で区別している。
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