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限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

希羅聚銘:(第46回目)『危機に明らかになるローマの脆弱性』

2010-09-29 00:29:15 | 日記
Livy, History of Rome (Livius, Ab urbe condita)
(英訳: "Everyman's Library", Translator: Canon Roberts, 1905)

日本とヨーロッパの社会制度の一つの大きな差は奴隷制度であろう、と私は考えている。日本でも奈良時代などではという身分の奴隷が政府あるいは豪族の所有物となって過酷な労働を強いられていたといわれている。しかし、日本では奴隷は人口のわずか5%ほどであり、9世紀ごろに律令制度の崩壊とともにの制度自体もなくなっている。その後も人さらいや身売りによる奴隷は存在したもののその取り扱いについては人道的であったように感じる。というのは、安土桃山から江戸時代にかけて日本に渡航した南蛮船やオランダ船にはアフリカの黒人が奴隷として乗せられていたが、その過酷な取り扱いに日本人は皆、憤ったと言われている。つまり、人を人とみなさず、牛馬の如く取り扱うのは日本人の考えには無かったことを示している。

さて、古代ヨーロッパにおける奴隷制度は、その規模において日本などとは比べ物にならない。特にエジプトやメソポタミア、シリアなどの地中海地域には古くから国際的な大掛かりな奴隷市場があり、各地から戦争で敗れた国の人々が大量に奴隷として持ち込まれてきた。一人あたり最高は数千万円、たいていは数百万円もする高価な商品であった。(参照ブログ:『99%オフのバーゲンセール』)ローマの貴族ではそういった奴隷を大量に購入して、家事、農作業、鉱山などの労働に従事したブルーカラーもいれば、一方では子供にギリシャ語やリベラルアーツの教育をする教師のようなホワイトカラーもいた。有名なスパルタクスを持ち出すまでもなく、奴隷達の望みは奴隷の身分からの開放であり、そのチャンスをいつも狙ったいた。


出典】Wikipedia 奴隷

さて、BC460年、ローマのカピトーリウムの丘が占領される事件が勃発した。

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Book3, Section 15

政治逃亡者や奴隷、総計2500人がサビーニ人のアッピウス・ヘルドニウスに率いられてカピトーリウムの丘と城塞を夜半に占領した。城塞の守備兵のうち、敵方に組せず、抵抗した者は直ちに処刑された。あとの者はあわてふためいて丘を駆け下りてフォルム・ロマヌム(Forum Romanum)に行き、『武器をとれ』とか『敵がやってきたぞ』と口々に叫んだ。

Exsules servique, ad duo milia hominum et quingenti, duce Appio Herdonio Sabino nocte Capitolium atque arcem occupavere. Confestim in arce facta caedes eorum qui coniurare et simul capere arma noluerant: alii inter tumultum praecipites pavore in forum devolant:alternae voces 'ad arma' et 'hostes in urbe sunt' audiebantur.

【英訳】The political refugees and a number ofslaves, some 2500 in all, under the leadership of Appius Herdoniusthe Sabine, seized the Capitol and Citadel by night. Thosewho refuse d to join the conspirators were instantly massacred,others in the confusion rushed in wild terror down to the Forum;various shouts were heard: "To arms!" "The enemyis in the City."
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ローマのカピトーリウムの丘と言うのは現在カンピドリオと呼ばれている場所で、ローマの観光の中心地であるコロッセウムやフォロ・ロマーノ(フォルム・ロマヌム)からほど遠くないところにある。フォロ・ロマーノは共和制ローマ時代には、元老院や民会が開催されたところで政治的には一番重要な場所であった。その枢要な場所を敵に占拠されたので市民は恐怖に陥ったのである。夜が明けるてから、ヘルドニウスは市民の恐怖をさらに煽る演説をした。

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Book3, Section 15

ヘルドニウスは奴隷達に向かって、自由を取り戻せと叫んだ。自分が今回の騒動を起こしたのも、諸君が不法にも故郷から引き離され首に重いくびきを架せられているその惨めな状態から開放し、元の生まれ故郷へ戻らせるためである。できるなら、ローマ人に頼んで開放を実現したいが、もしそれが適わぬなら、どんなことをしてでもウォルスキ族やアエクイ族を引き入れて開放を実現するつもりだと述べた。

Servos ad libertatem Appius Herdonius ex Capitolio vocabat: se miserrimi cuiusque suscepisse causam, ut exsules iniuria pulsos in patriam reduceretet servitiis grave iugum demeret; id malle populo Romano auctore fieri: si ibi spes non sit, se Volscos et Aequos et omnia extrema temptaturum et concitaturum.

【英訳】Appius Herdonius was calling from the Capitolto the slaves to win their liberty, saying that he had espoused the cause of all the wretched in order to restore the exiles who had been wrongfully banished and remove the heavy yoke from the necks of the slaves. He would rather that this be done at the bidding of the Roman people, but if that were hopeless, he would run all risks and rouse the Volscians and Aequi.
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これを聞いたローマ市民は一様に青ざめた。奴隷達は一体どちら側につくのだろうか?自分達を裏切るのか?それとも、自分達と一緒になって敵と戦ってくれるのか?疑念が更なる疑念を呼びこんだ。

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Book3, Section 16

人々の不安は一様ではなかったが、とりわけ奴隷に対する恐怖が最大であった。誰もが自分の家の中に敵がいるのでは無いかと疑念を抱いた。奴隷を信頼しないのが安全だとも思われたが、かと言って信頼しないでいる、というのも果たして安全かというと自信がなかった。というのは、奴隷が信頼されていないと知ると憎悪を増すかもしれないからだ。また、貴族と平民の階級を越えて協力しあうというのも危機を乗り切れる保証はなかった。

Multi et varii timores; inter ceteros eminebat terror servilis ne suus cuique domi hostis esset, cui nec credere nec non credendo,ne infestior fieret, fidem abrogare satis erat tutum; vixque concordia sisti videbatur posse.

【英訳】Men's fears were many and various; above all the rest stood out their dread of the slaves. Everybody suspected that he had an enemy in his own household, whom it was safe neither to trust, nor, from want of confidence, to refuse to trust, lest his hostility should be intensified; and it seemed hardly possible that even co-operation between the classes should arrest the danger. (Translation by B.O.Foster)
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このように、ローマは一旦危機に陥ると、市民間の対立が非常な政情不安を引き起こす極めて脆弱な社会基盤であったことが分かる。
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