限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第81回目)『アムステルダムでカレル・ヴァン・ウォルフレン氏を訪問(3)』

2010-09-13 09:56:06 | 日記
前回から続く。。。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は日本に20年以上滞在し、都内だけでなく、東京近郊も含め10数回引越しをしているという。日本に居る時には、講演依頼が絶え間なくきていたが、 10年ほど日本を離れて暮らすようになってからは、それがぱったりと止まったと、話してくれた。

世評では、ウォルフレン氏は『日本叩き(Japan basher)』というレッテルが貼られているのは私も知らない訳ではない。しかし、彼の本を数冊読んでみて、会う前から、どうも以前(1980年前半)アメリカで議員が日本製品(車、ラジオ)をハンマーで叩き割ったのとはウォルフレン氏は次元が違うと感じていた。つまり、アメリカの議員のような、単にアメリカ人の反日本的感情にアピールするのではなく、論理的に日本の根源的な問題点を指摘するその姿勢は冷静に判断すると決して悪意を感じなかった。

今回、ウォルフレン氏の口から何度も、『自分は日本が好きであるし、日本が立派な国であるとも思っている。しかし、あるいはそうだから余計に、日本の欠点を指摘して更によい国になって欲しいと願って批判をしているのだ。私の真意を理解してくれる日本人は少なくない。しかし、自分は Japan basher と分類されていて、私の意図が正しく伝えられていないことを残念に思う。』という嘆きを聞いた。



私は今回、初対面にも拘わらず、半日近くほとんど2人だけで話す機会を得た。そこで心底、彼の日本に対する愛情は本物だと感じた。しかし、他方で彼の日本の政治・経済・文化に関する学識と第一級のニュースソースから得た幅広い知識、それに彼の知性を特徴づけるあの粘り強い論理的な話しぶりは、日本の並大抵の知識人では到底太刀打ちできない、と感じた。ウォルフレン氏の口吻からは、日本では超一級の知性人と認められている大前研一氏や西部邁氏でさえ物足りなかったらしい。日本人の中でウォルフレン氏に拮抗できるとしたら、明治時代にまで遡ると南方熊楠が挙げられるだろう。この2人ががっぷり四つに組むといわゆる言論の龍虎の戦いが華々しく繰り広げられたことだろうと想像する。

ウォルフレン氏は先年、定年でアムステルダム大学を退官し、名誉教授になられた。それで、身分的には自由になったので、これから住む場所も含めいろいろな展開を考えているらしい。その活動の一つが日本に住む住まないは、とりあえず不問にするも、日本における講演活動があるという。

私の正直な感想を言えば、ウォルフレン氏に講演を依頼してもその強みがあまり生かせないのではないかと感じた。つまり、彼の話振りは粘り強すぎて、通常の日本の聴衆には、手にあまるように感じる。それに、彼の話は、最近の政治の話を除けば、主張の要点は、過去の本に尽くされているので、むしろ本を読む方が正しく理解できるのではないかと思う。

さすれば、ウォルフレン氏はもう日本にとっては不要な人であろうか? No! 彼はかつても、そしてこれからも日本には必要な人である。なぜなら、彼の意見は時に日本人の思考様式を超えた論理展開を示してくれるが、それがかなりの部分『ヨーロッパの良心』とも名づくべき意見として傾聴に値する。逆説的に言えば、彼の意見が理解しがたい、と感じられるほど日本人にとっては、その論理との対決が我々を鍛えてくれる。日本人と同じ意見は聞いても、それは聴くに心地良いが、功利的観点から言えば我々の知識や認識を増進しない。

従って、ウォルフレン氏は使い方が問題だ。彼の学識と雄弁が一番生かせるのは、大衆に対しての話しかけではなく、一対一、あるいは少人数での対話形式の討論である。よく知られているように、ウォルフレン氏は日本語は流暢ではない。しかし、英語は並みの英米人はとても足元にも及ばない。これらの観点から、私の考えるウォルフレン氏の活用は、次のように想像する。

  【1】英語で日本の政治・経済・文化について議論する。

  【2】特に、松下政経塾の塾生や若手政治家、あるいは中央官庁の若手のキャリアなど、数人が一つのグループとなって彼との議論バトルを行う。

  【3】一つのグループは一週間に1回から2回、議論する。1回あたりは数時間とする。従ってウォルフレン氏は1週に複数のグループの相手をする。

  【4】ジャーナリストの通弊として、ウォルフレン氏は話をさせると延々と持論の展開が続く。従って、グループとの議論には進行役(ファシリテーター)をつけ、議論のポイントを絞りこんで意識的に論点をつめて徹底的に話し合う。

この様子は喩えてみると、横綱に胸をかりて稽古をつけてもらっている内弟子のようなものだ。ぶつかっては何度土俵にころがされ、それでも立ち上がり、汗と砂にまみれながらも徐々に力がついていく。そういう光景が眼に浮かぶ。ウォルフレン氏は日本には、知的バトルができる相手がいない、と嘆いているが、それはまさしく、このような正面きってのポイントをついた議論を避ける日本的な風潮がもたらしたものだ。その風潮を正す意味でも若手の知的エリートの出稽古が必要である。

ウォルフレン氏から直接聞いたこと、あるいは私が今まで読んだいろいろな情報から私が勝手に判断すると、従来、日本人が公の場で、ウォルフレン氏と議論をしても彼の頑丈な論理の壁を突き崩せずにいた。それで、困ってしまって(周章狼狽して)議論が決着しないまま、むりやり議論のポイントをずらしてしまっていた。その結果、お互いにフラストレーションのたまったままになっていたように感じる。ウォルフレン氏は日本の経済や日本人に関しては一面非常に高く評価しているし、愛着も持っている。ただ、日本のあるべき姿を議論しているときは、自分の論理が正しいと考えている限り、つまり、誰もその論理の間違いを指摘できない限り頑として譲らない。それが反対意見を冷静に受け止めることのできない日本的風土ではネガティブなイメージを与えてしまっている。

今回、日本の現在のあり方や、環境問題、中国問題など、私が前から考えていた点についていろいろとウォルフレン氏に伺った。ホットトピックでは、菅氏と小沢氏の比較、昨年の小沢チルドレンの胡錦濤訪問についての評価、憲法第九条と再軍備の話、原子力活用の是非、風力発電や太陽光発電の将来、など。いくつかの点で私と意見が食い違ってはいたが、全般的に納得性の高い意見をもっていることが分かった。それぞれの内容に関しては、私の記憶違いや聞き間違いがあるかもしれないので、ここでは申し上げることを控えさせて頂く。

まるまる一日の滞在ではあったが、私にとっては数年分の知的栄養をもらったような濃密な時間であった。

               FINIS
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