限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第64回目)『右脳と左脳のコンビで英語をスムーズに話そう』

2010-05-28 21:40:00 | 日記
私は現在、京都大学でいくつか授業を受け持っていることは以前に述べた。(『教うるは学ぶの半ばなり』
その中の一つに英語で教える科目がある。受講生は、京都大学に留学している海外からの学生を主体としてそれに京都大学の学生も席に余裕があれば参加できる。現在教えている『日本の情報文化と社会』(Informatics in Japanese Society)のクラスは幸いの事ながら大きい部屋が割り当てられているので、留学生30人と京大生20人の受講希望者を全て受け入れることができた。

私は普段それほど英語を使う場面がないので、授業の数日前から頭を英語モードに切り替えるため、意識的に英語の文を多く読み、またインターネットラジオも英語放送に切り替える。そういう準備をしていっても1時間半の授業の中で比較的スムーズに英語がでる場合とそうでない場合があるのに気づく。

その違いを自分なりに分析してみると次のようになる。

まず、英語が比較的スムーズに出てくるのは、たいてい頭のなかに言いたいことのイメージがはっきりしている場合である。先日、蘭学というテーマで話した時に、福沢諭吉が大阪の適塾で、大恥をかいた話をした。それは、熱い夏の一日のこと、諭吉が二階で寝ているとていると、階段の下から女の声で諭吉の名前を呼ぶ声が聞こえた。無視する訳にもいかず頭にきた諭吉は、『なんだうるさい!』と怒りながら階段を降りていった。すると声の主は緒方洪庵の奥さんであり、一方、諭吉は暑さのあまり裸であった。『これほど気恥ずかしい思いをしたことは後にも先にもなかった』との諭吉の述懐である。この話を学生に英語で説明している時には、私はかつて何度か訪れた北浜の適塾の二階の景色が頭のなかに映し出されていた。そしてそれを見ながら話をしていたのである。論理的に考えると、英語で話すというのは頭のなかのイメージを具体的な文章に変換しなければいけない。つまり 
    イメージ(アナログ) ==> 言語(デジタル)
というAD変換(アナログ・デジタル変換)を行うことである。


【出典】www.cartoonstock.com
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こまったことに、こんな絵を見せられた時に、わしの右の脳はなかなか立派な絵だというんじゃが、左の脳は買うには及ばんというんじゃ。別の絵の場合には、右の脳はつまらん絵だというんじゃが、左の脳は結構な掘り出し物だというんじゃ。 ( On some of the paintings my right brain says they're good art, but my left brain says they're bad investments. On others, my right brain says they're bad art, but my left brain says they're good investments.)
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この仕組みをもう少し詳しく見てみよう。

イメージは右脳が司る、と言われている。それに対して、左脳は言語を司るというのだが、私の個人的な感じではどうもそうではないと思う。例えば、プロのアナウンサーと素人が原稿を読むのを聴くと分かるが、素人の方は文章を棒読みして、感情が全く入っていない。それに反しプロは、あたかも与えられた原稿を自分の経験であるかのように感情移入して読むので、聴いていて非常に自然に聞こえる。これは、素人は左脳の指令で言葉が出ているが、プロは目でみた文章を左脳で理解したあと、右脳に移してからしゃべっている。あたかも牛の反芻胃のように、右と左の脳の間で情報が行き来しているのだ。そしてプロは完全に右脳からの指令でしゃべっているので、感情と言語が一体化してしゃべることができる。

つまり言語活動と言うものの基本はやはり右脳であると私は考える。これが分かるのは、上の例でいうと素人の棒読みをぎこちない、と感じるのは、左脳から発せられる言葉は右脳のフィルターには異分子と感じるのである。

私のこの理論によると、英語がネイティブでない人が話しているのを聴くと、どうして単調に聞こえるか明らかだ。つまり、英語の構文や単語をどうしようかと、左脳だけが活発に活動して、右脳がほとんど静止状態になっているからである。そして、左脳で作りあげた文を右脳に移さずにそのまま口から出すものだから上の例でいう素人の棒読みに近いしゃべり方になってしまうのである。

私の経験から言うと、英語が比較的スムーズに話せるときには、頭の中が二つに割れているのを実感する。そして、右脳では話したいイメージが湧き出てきて、左脳では、そのイメージに最適の単語を高速サーチしているのである。そして今、口に出している文が終わる前に次の文に必要な単語が全てサーチ完了していると、途切れなくしゃべれている状態となる。この時は、本当に瞬間であるが、左脳から構文と単語とが合体して右脳に送り込まれてくる。それに感情のスパイスをふりかけて口からだすことになるのだ。

結局、英語だけでなく、数学、囲碁、将棋、つまり習い事全般で反復練習を繰り返して慣れるというのは、実は、左脳で理解したことがらを、右脳にスムーズに送りこむことができる状態になることを指すと私は考える。練習を繰り返して、遂には左脳の機能、つまり論理の関与がほとんど無くても右脳だけで自然と解を見つけることの出来る人が名人と呼ばれているのだ。従って、将棋の名人の脳の動きを科学的に測定すると右脳が活発に動いている、というのはなんら不思議ではない。逆にいうと、左脳の手助けを借りないと解がでてこない内はまだ素人ということになる。(言うまでもなく、私の英語と言うのはまだこの段階である。)
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