限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第84回目)『ヨーロッパの労働者に勝てない日本の大卒の知的レベル』

2010-09-21 00:17:38 | 日記
先週末(2010/09/18)、ケンブリッジからロンドンのヒースロー空港にチャーターしたワゴン車に数人で乗って移動した。私は助手席に座りながら、運転手と道すがら1時間半ほどいろいろと話をした。彼はもとはロンドンでパブの経営をしていたのだが、都会の暮らしに飽きてケンブリッジで運転手の職についているとのこと。生まれはヒースローの近郊であるが、いわゆる下町アクセント(コックニー)で話すので、たまに聞き取れない単語がある。宗教の話をしていた時、信仰より自分にファイスを持つことが重要だ、と言ったが。私は、はてファイスとは?と聞き返したのだが、彼もファイス?説明できないなあ、と言った。やっと、これは faith(フェイス)だと思い至った。アクセントや職歴などから考えて彼は、大学卒の知的エリートではなく労働者階級の人間だった。

さて、彼と話をして感心したのは、日本ではいわゆる硬派な話とみなされている政治・宗教・教育の話をしても自分の意見をしっかりと持っていることだった。日本では、イギリスの労働者階級はスポーツ新聞だけしか読まないし、学歴も日本の基準から言えば低いので、知的訓練がなされていないかのような論をよく耳にする。しかし、彼との話はそういった一般的で、大雑把な捉え方が正しくないことを裏付けるに十分であった。



彼との話の中で興味深かった点を書いてみたい。

移民の話で、とくに9・11以降イスラムからの移民によって社会不安が増加していることにたいしてどう考えるかと聞いた。彼が言うには、イスラムの人間がいるからと言って特に問題はないと言う。それに対して私が、しかしロンドンの地下鉄爆破のような事件も起こっているではないかと言うと、『イギリスでは、北アイルランド問題で過去にはしょっちゅう町中で爆破事件があった。イスラムが引き起こす事件はそれとの比較でいうと、頻度は遥かに少ない』と我々日本人の感覚からではうかがい知れない答えが返ってきた。実際に彼が小学校のころ、近くの陸軍の陣営が爆破されそうになったという。それは、その宿舎北アイルランドで警備に当たっていた兵士の多くはその陣営で訓練を受けていたので狙われたのだ。爆弾を運んでいたテロリストが途中で誤まってスイッチを入れたため、木っ端微塵に吹き飛び、その肉片や爆片の後処理に長い期間を要したとのことである。

宗教問題では、さらに次のような話もでた。イギリスでは、現在メジャーな宗教は8つある。小学校では、宗教の時間があり、毎日先生がそれぞれの宗教について話をするらしい。このように子供のころから多くの宗教の概要を知ることは他のヨーロッパ諸国ではあまり見かけないという。これは、他民族の多いイギリスならではの政策といえよう。

生活保護に関して言えば、イギリスでは不正受給はずっと前から問題視されている。その問題の根深さは聞くと、日本より断然と深刻だ。日本では最近になって始めて起こった、外国人の不正受給はイギリスではかなり前から発生しているが、政府は一向にそれに対して有効な手を打たないという。問題の存在は認めていても受給資格を見直ししない方針であるらしい。イギリス国家にとって個人の権利(生活権)を制約することによる経済的メリットよりも、多少の不正には目をつぶることで、イギリスが社会的寛容であることを世界にアピールする方が国益にかなう、との判断に立っているらしい。

今回、別のイギリス人に同じように、移民にからむ問題をどう考えるかと聞いたところ、もともと世界に他民族がいるのであるから、イギリスに他民族が混在して暮らしているのは、何も不思議なことでもない。どのようにすれば、一緒に暮らしていけるか、考えていくのがよい、との発言があった。宗教問題といい、移民問題や、外国人の生活保護の問題といえ、植民地経営を何百年もの間続けてきたこのイギリスという国の懐の広さと、局所的には損はしても、大局的にみると必ず利を得ている、というその戦略の慧眼には改めて脱帽した。

さて、私がワゴン車の運転手と会話をしながら、じわじわと感じたのは、日本とイギリス(を含めヨーロッパ)との知的自立心の差である。

以前『英語講義:日本の情報文化と社会・テスト』に書いたように、欧米からの留学生と京大の学生を比較しても知的独立心については差が歴然していた。つまり、日本の学生は、高校までにまともな社会問題に対する知的訓練を受けていない。極論をすれば、大学受験に役立たないことは、分野に関係なく全てオミットするのが現在の日本の高校までのあり方だ。そして残念なことに、大半の人間が知的訓練を大学生の間もしないし、社会人になってからも引き続いてそうだ。特に酒の席では、知的バトルが全く忌避され、少しでも堅苦しい話をもちだすと、すぐに茶化されて、はぐらかされてしまう。

先日(2010/09/09)アムステルダムで会った Wolferen氏が幾度となく指摘しているように、日本の知的エリートと言われて人達ですら、知的バトルを挑んでみると結構レベルが低いという。今回のワゴン車の運転手との会話でも分かるように、イギリスでは、労働者階級ですら、確固たる自分の意見・主張を持ち、論理的に話す訓練がなされている。この労働者階級よりずっと上にいるヨーロッパの知的エリートはそれこそ私が Wolferen氏との会話で感じたように、極めて迫力ある論理展開ができるのは当然といえよう。これらとの比較で言うと、残念ながら日本の各階層における知的訓練度合いは、ヨーロッパから見ると一段どころではない差を感じる。

結局、民主主義というのは有権者の良識と知的のレベルが直接反映される政治システムであるとしたら、以前述べた『日本に民主主義はない』の趣旨とは別の意味で日本には、まだまともな民主主義が根付いていない、と結論づけてよさそうだと私は考えている。
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