限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第81回目)『私の語学学習(その15)』

2010-09-01 15:51:32 | 日記
前回から続く。。。

【ヨーロッパにおける地下水脈的ドイツ語文化圏】

当時(昭和52年、1977年)はまだ成田空港が完成していなくて、国際便も羽田空港から出発していた。その上、ロシアはソ連(ソビエト連邦)と言って、社会主義国家であるので、自由主義国家の航空機はその領土の上を飛行することが許されていなかった。それで、飛行機はアラスカのアンカレッジに着陸して給油をしてから北極回りでヨーロッパに入っていった。私としては22歳で始めての外国であり、不安ではあったが、乗った航空機がフルトハンザで、機内放送はある程度理解できたのはともかくもうれしかった。以前『美女と法師と毒薬と』に書いたように、フランクフルトの空港で、100マルク紙幣をコインに砕いてもらうための交渉では、現地のドイツ人の粗暴な態度に縮みあがる思いをした。

ミュンヘンに着いてからは、大学に出頭して今後のすべきことを聞いて回った。学生部の部長に会った時に、彼がご当地・バイエルンの緑基調の民族服を着て、鳥の羽のついた帽子をかぶっているのは非常に印象的であった。つまり西洋人は普通の洋服を着るものだと思っていたが、各地の伝統的な衣装を大切にするのだというのを無言のうちに教えられた思いがした。

大学は10月から始まると聞いて早速旅行の準備をはじめた。というのは(もう時効だから言っても構わないと思うが)私はサンケイスカラシップに合格した時から、是非ヨーロッパ全土を自分目で見て回りたいと思っていた。つまり、工学の勉強より実地だ、と考えた訳だ。ドイツから南に向かい、スイス・フランス・イタリアを経由してギリシャに行った。この間、ほとんどユースに宿泊したが、これがドイツ語および英語の会話力向上に非常に役立った。というのは、当日のベッドを確保するために、日がまだ高い、夕方5時ごろにユースに着くと、たいていは誰か先客が部屋にいた。当然、お互いに自己紹介をするのだが、この文句は大体決まっているので、そのうちに極めてスムーズに言えるようになってくる。また、日本人と分かると、日本のことを聞かれる。それに対しても毎回同じような内容で答えるので、多少のバリエーションはあっても、その内に言うべきことを暗記してしまう。こういった決まり文句をすらすらと言えることは会話力の向上に役立つと実感した。

しかし、それよりもよかったのは、夕方に同室の人間と街中へ出かけて一緒に食事をしたり、酒を飲んだりして、数時間も話すことで単に会話力が向上しただけでなく、多様な文化を肌身で理解できたことだ。ユースには各国の若者が宿泊するが、1977年(昭和52年)当時、まだイスラエルとアラブの戦闘で、お互いに死傷者がかなりでていた。それで、私はこの両文明の人間はお互いに口もきかず、見たとたんに殴り合いするものだというふうに感じていた。ところが、あるユースでイスラエルとアラブの人間が談笑している所に出くわした。それだけでなく、しばらく話し合ったあと、最後に『将来、お互いに自由に行き来できるようになったら、必ず訪問するから』と言って、住所を教えあっていた。



語学に関して言えば、ドイツやスイスはドイツ語で用が足りたので街中では英語を使う必要が無かったのは当然としても、その他の国々、例えばフランス、イタリア、ギリシャなどでも、特に北イタリアではドイツ語を話す人がかなり多くいたのにはびっくりした。ドイツに戻ってから調べて分かったのだが、北イタリアなどは、オーストリー・ハンガリー帝国の一部であったので、数十年前までドイツ語が使われていたのだ。更に、当時まだ共産圏と言われていた東ヨーロッパ(ハンガリーとチェコ・スロバキア)へ行った時は、英語はほとんど通じなかったがドイツ語は、あたかも戦前の朝鮮や台湾における日本語のように、どこでも通用した。しかし、ドイツ語は年配者だけにとどまらず、若者でもいつか西欧で働きたいと考えている人たちはかなり積極的にドイツ語を勉強していた。

当時からそうであるが、ドイツの経済力、工業力の強さは、ヨーロッパ諸国の中でも群を抜いている。とくに1989年のベルリンの壁崩壊以降、東ヨーロッパとの国境が開放されて人と物資の移動が自由化されてからはその影響は一層強まったように思われる。それで、ドイツ語を母国語としているドイツ・オーストリア・スイスを中核としたドイツ語文化圏とその周りの国々まで含めると、ドイツ語の影響力は日本人が想像している以上に非常に強いものがある。

私がたまたまドイツ語を知っていたためにこういった現状を直接的に知ることができたが、英語だけしかできないとしたら、こういったヨーロッパにおける地下水脈的ドイツ語文化圏の存在を知ることがなかったのではないか、とその時感じた。我々日本人としては、英語は必須としても、他の言語を多少とも知っていることは、表面的には見えてこない地下水脈的なつながりを知る上で必要だと私はその当時から思っている。

続く。。。
コメント
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