日本では四字熟語が好まれている。例えば、『面従腹背』や『空前絶後』など、良く使われるものもあれば、『実事求是』や『明鏡止水』のような、由来を知らないと気楽には使えないものもある。
しかし、日本で使われている四字熟語と本国の中国で使われているものの間に微妙な差を感じることがある。一例を挙げると、日本では、『多多益弁』という語句が好んで使われる。これは、漢書の第34巻の『韓彭英盧呉伝』に表れる語句である。韓信は初め、楚の武将の項羽に仕えていたが、才能が全く認められなかったので項羽の一番の強敵である、劉邦に鞍替えした。劉邦も当初は韓信のどこが素晴らしいか、分からなかった。それで、韓信は自分の才能が認められないことに愛想をつかして、劉邦の陣地からトンズラした。しかし、劉邦の一番頼りにしていた蕭何が劉邦に無断でトンズラした韓信を追いかけていった。しかし、誰かが劉邦に蕭何が逃げたを聞いた劉邦はあたかも『如失左右手』(左右の手を失う如し)かのように落胆した。
しかし、数日後に蕭何が韓信を連れて帰ってきたときには、劉邦は怒ったフリをしたが内心は非常に喜んだ。蕭何が劉邦に言うには、『韓信なしには、天下を取れない』それ故、韓信を是が非でも連れ戻すために一刻を争って彼の後を追いかけたのだと。蕭何の眼に狂いはなかった。結果的に韓信なしには、劉邦といえども強敵の項羽を倒すことはできなかった。
さて、ある日、劉邦は数人の武将と談笑していた。そこで、誰が一番よく兵卒を率いることができるかという話題になった。韓信が遠慮なく劉邦に言うには、『陛下不過能將十萬』(劉邦は、将軍としては、高々十万人の兵卒しか率いることができないであろう)これを聞いてむっとした劉邦は、『それではお前(韓信)はどうなんだ?』韓信が自信たっぷりに、『そうですな、私なら十万などとは言わず何百万人もの兵卒を使いこなしてみせましょう。』と豪語した。この韓信の語句は史記では、『多多益善』(たた、ますます、よし)と書かれているが、漢書では『多多益弁』(たた、ますます、べんず)と書かれている。つまり我々が日常使っている単語は漢書由来の言葉であっった訳だ。ところが現代中国では、史記の『多多益善』の方を使っている。それで、日本で使われている『多多益弁』(たた、ますます、べんず)という言葉を言うと、意味は理解してもらえても、慣用句としての陰影は伝わらない。
このような例は他にもある。ネット上の四字熟語辞典を見ると『為虎添翼』(いこてんよく)という語句が載っている。その意味は、『強いものに、さらに勢いをつけること。虎に翼を添えるともう、かなう者はいない。』しかし、これは元来、『無爲虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之』として周書に載っていたらしい。ただし、現在の周書にはこの句は見当たらない。そこでは、『添』ではなく『傅』(ふ)という字がつかわれている。この『傅』という字は、ぴったりとくっつくという意味で『牽強傅会』(きょうけん、ふかい)という語句として使われることがある。
字句の細かい点はさておいて、問題なのは、この語句のニュアンスである。元の『無爲虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之』を書き下し文にすると:『虎のために翼を付すなかれ。将に飛びて邑(むら)に入り、人を択んでこれをくらわん。』つまり、虎はすでに十分恐ろしい動物だ。それに翼などつけてしまうと、村という村を飛び回り、どんな災厄がくるかもしれない。どうか、翼をつけないで欲しい、という意味ととれる。ここで虎と言われているのが、実は、中国にはごまんといた『悪辣官吏』のことを指す。従って、文意は非常にネガティブであることが分かる。四字熟語のような、中国の故事をベースとした語句を使う場合は、表面的な意味だけでなく、その背景・由来を十分に理解してから使うように心がけるべきであろう。
しかし、日本で使われている四字熟語と本国の中国で使われているものの間に微妙な差を感じることがある。一例を挙げると、日本では、『多多益弁』という語句が好んで使われる。これは、漢書の第34巻の『韓彭英盧呉伝』に表れる語句である。韓信は初め、楚の武将の項羽に仕えていたが、才能が全く認められなかったので項羽の一番の強敵である、劉邦に鞍替えした。劉邦も当初は韓信のどこが素晴らしいか、分からなかった。それで、韓信は自分の才能が認められないことに愛想をつかして、劉邦の陣地からトンズラした。しかし、劉邦の一番頼りにしていた蕭何が劉邦に無断でトンズラした韓信を追いかけていった。しかし、誰かが劉邦に蕭何が逃げたを聞いた劉邦はあたかも『如失左右手』(左右の手を失う如し)かのように落胆した。
しかし、数日後に蕭何が韓信を連れて帰ってきたときには、劉邦は怒ったフリをしたが内心は非常に喜んだ。蕭何が劉邦に言うには、『韓信なしには、天下を取れない』それ故、韓信を是が非でも連れ戻すために一刻を争って彼の後を追いかけたのだと。蕭何の眼に狂いはなかった。結果的に韓信なしには、劉邦といえども強敵の項羽を倒すことはできなかった。
さて、ある日、劉邦は数人の武将と談笑していた。そこで、誰が一番よく兵卒を率いることができるかという話題になった。韓信が遠慮なく劉邦に言うには、『陛下不過能將十萬』(劉邦は、将軍としては、高々十万人の兵卒しか率いることができないであろう)これを聞いてむっとした劉邦は、『それではお前(韓信)はどうなんだ?』韓信が自信たっぷりに、『そうですな、私なら十万などとは言わず何百万人もの兵卒を使いこなしてみせましょう。』と豪語した。この韓信の語句は史記では、『多多益善』(たた、ますます、よし)と書かれているが、漢書では『多多益弁』(たた、ますます、べんず)と書かれている。つまり我々が日常使っている単語は漢書由来の言葉であっった訳だ。ところが現代中国では、史記の『多多益善』の方を使っている。それで、日本で使われている『多多益弁』(たた、ますます、べんず)という言葉を言うと、意味は理解してもらえても、慣用句としての陰影は伝わらない。
このような例は他にもある。ネット上の四字熟語辞典を見ると『為虎添翼』(いこてんよく)という語句が載っている。その意味は、『強いものに、さらに勢いをつけること。虎に翼を添えるともう、かなう者はいない。』しかし、これは元来、『無爲虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之』として周書に載っていたらしい。ただし、現在の周書にはこの句は見当たらない。そこでは、『添』ではなく『傅』(ふ)という字がつかわれている。この『傅』という字は、ぴったりとくっつくという意味で『牽強傅会』(きょうけん、ふかい)という語句として使われることがある。
字句の細かい点はさておいて、問題なのは、この語句のニュアンスである。元の『無爲虎傅翼,將飛入邑,擇人而食之』を書き下し文にすると:『虎のために翼を付すなかれ。将に飛びて邑(むら)に入り、人を択んでこれをくらわん。』つまり、虎はすでに十分恐ろしい動物だ。それに翼などつけてしまうと、村という村を飛び回り、どんな災厄がくるかもしれない。どうか、翼をつけないで欲しい、という意味ととれる。ここで虎と言われているのが、実は、中国にはごまんといた『悪辣官吏』のことを指す。従って、文意は非常にネガティブであることが分かる。四字熟語のような、中国の故事をベースとした語句を使う場合は、表面的な意味だけでなく、その背景・由来を十分に理解してから使うように心がけるべきであろう。