今週(2010/09/12日から)はイギリスはケンブリッジに着ている。昨年、シリコンバレーの訪問を訪問した時と同様、今回のツアーも同志社大学・大学院・総合政策科研究科の山口栄一教授が企画され、京都のASTEMの更田誠さん、牧野成将さん、HMSの早崎道人さん達のご尽力によるSTEP2010に参加させて頂いて、ケンブリッジに来た。ケンブリッジに一週間滞在し、ベンチャー教育の講義を受けたり、実際にベンチャー企業やインキュベーション施設を訪問し、いろいろな人を会っている。本からでは得られない貴重な経験をしている。昨年のシリコンバレーの時にも、いわゆる『目からうろこ』がいくつもあったが、今年はもっと深い真理に到達することができた。
その内容について述べたい。
私は現在、京都大学でベンチャーを起こせる人材教育に携わっているので、日本の現状の経済環境でどのようにすればそのような起業精神の持った人間が育つのかについていろいろ考えるところがある。その時にいつも気になるのは、なぜアメリカ(シリコンバレー)やイギリス(ケンブリッジ)では起業家精神あふれる人々が集まるのか?ということである。
理由はいろいろ考えられるであろう。インフラが整っている、税制が起業に有利である、などのように目に見える要因もあれば、伝統的に企業家が集まる、文化が起業家を尊重する、などのように評価のしようがないような要因もある。いろいろな要因を考えてみても、どうももう一つ私の腑に落ちる理由が見つからなかった。考えている内に何か論理の袋小路に陥ってしまう。それで、イギリスで一番、あるいは全ヨーロッパでも一番、の起業家精神(entrepreneurship)が盛んなケンブリッジに行ったらこの問題をぜひとも解決したいと念願していた。
今週の月曜日(9/13日)と火曜日(9/14日)のわずか2日での講義とベンチャー企業の訪問で、この宿願があっけなく解決した。解決したといっても、この解答は必ずしも一般性を持っていると言えないかもしれないが、少なくとも私自身には十分納得のいくものである。
私が到達した結論は、起業家精神が盛んである、あるいはベンチャーが成功するにはワイガヤ(わいわい、がやがや)が必要である、という極めて陳腐なものだ。メーテルリンクの『青い鳥』ではないが、至るところを探し回った結果、求めていたものが自分のすぐ身近にあった、ということになる。しかし、その自明の結果を得る為に支払った努力は必ずしも無ではなかった。それは、日本が得意としていたワイガヤは何故現在の経済状況では通用しなくなったのか、という理由も同時に明らかになったからである。
ワイガヤが日本の産業界、研究者仲間でうまく機能していた時代のことを考えると、ほとんどの場合、ワイガヤの参加者は知り合いの仲間であった。例えば、同じ会社、同じ部門、同期の仲間であったり、ある強力なボスが率いる研究会の仲間たちだけでのワイガヤであった。そこでは、仲間内以外の部外者は見えないバリアに阻まれて参加が許されていない。
日本の伝統、あるいはお家芸といわれているワイガヤが個人主義の牙城である、イギリス人やアメリカ人のような社会で、効果をもたらしている。それはこれらの国では、ワイガヤを実践したおかげで、幾多ものベンチャー会社が成功している、という一見、非常に矛盾した現実がある。
この不可解な状況はどのように理解すればよいのであろうか?
私の考えではワイガヤ自体の効果が変質したのではなく、経済環境が変質したときに日本のワイガヤがその変化に正しく追随できなかったのに対して、イギリスとアメリカの潜在的ワイガヤ文化がようやく時代と効果的な相乗効果を生み出したと思う。
私の到達した結論を述べると、日本経済が世界を席捲していた 1950年代~1980年代は会社内だけのワイガヤで十分成果を得られた。つまり競争力のある製品、サービスを提供するのに必要な情報はすべて社内のどこかに沈殿していたのだ。ワイガヤはその沈殿物をかき混ぜることで、異分子同士のケミストリーを生み出し、その結果として斬新な製品ができてきた。
ところが、1990年から一社内の蓄積知識、情報だけでは足りなくなり、他社との緩やかな情報連結、いわゆるオープンイノベーションが勃興してきた。そうすると、ワイガヤが社内だけでなく、敵対企業の社員、異業種の人間が参加する必要がでてきた。現在の日本がうまくいっていない、という結果から逆に類推すると、日本人には不特定の人間の参加によるワイガヤのモメンタム・破壊力をうまく活用できていない、ということが分かる。その一方で、イギリスやアメリカのワイガヤは社内、社外を問わず真の意味でのオープンな環境の対等な議論が行われる。その結果、以前の日本の企業内で見られてような濃密なアイデアが次々と湧き出してきた、ということになる。
この点に考えが至ったとき、私には目の前の霧がすーっと霽れた。長年の課題が解決できたうれしさを味わったのもつかの間、すぐに、論理的にこの考えを進めてみると『内と外を峻別する日本の伝統的な考えが根本的に解消されない限り日本は現在のオープンイノベーションでは決してイギリスやアメリカに勝つことができない』という命題が見えてきた。もし、私のこの論理的推論が正しいとすると、ベンチャー企業のみならず、大企業も今後のオープンイノベーションの経済界ではなかなか勝者になれないということになる。今までより一層広く黒い雲が目の前に広がってきた気がして、私は一層滅入った気分になった。
その内容について述べたい。
私は現在、京都大学でベンチャーを起こせる人材教育に携わっているので、日本の現状の経済環境でどのようにすればそのような起業精神の持った人間が育つのかについていろいろ考えるところがある。その時にいつも気になるのは、なぜアメリカ(シリコンバレー)やイギリス(ケンブリッジ)では起業家精神あふれる人々が集まるのか?ということである。
理由はいろいろ考えられるであろう。インフラが整っている、税制が起業に有利である、などのように目に見える要因もあれば、伝統的に企業家が集まる、文化が起業家を尊重する、などのように評価のしようがないような要因もある。いろいろな要因を考えてみても、どうももう一つ私の腑に落ちる理由が見つからなかった。考えている内に何か論理の袋小路に陥ってしまう。それで、イギリスで一番、あるいは全ヨーロッパでも一番、の起業家精神(entrepreneurship)が盛んなケンブリッジに行ったらこの問題をぜひとも解決したいと念願していた。
今週の月曜日(9/13日)と火曜日(9/14日)のわずか2日での講義とベンチャー企業の訪問で、この宿願があっけなく解決した。解決したといっても、この解答は必ずしも一般性を持っていると言えないかもしれないが、少なくとも私自身には十分納得のいくものである。
私が到達した結論は、起業家精神が盛んである、あるいはベンチャーが成功するにはワイガヤ(わいわい、がやがや)が必要である、という極めて陳腐なものだ。メーテルリンクの『青い鳥』ではないが、至るところを探し回った結果、求めていたものが自分のすぐ身近にあった、ということになる。しかし、その自明の結果を得る為に支払った努力は必ずしも無ではなかった。それは、日本が得意としていたワイガヤは何故現在の経済状況では通用しなくなったのか、という理由も同時に明らかになったからである。
ワイガヤが日本の産業界、研究者仲間でうまく機能していた時代のことを考えると、ほとんどの場合、ワイガヤの参加者は知り合いの仲間であった。例えば、同じ会社、同じ部門、同期の仲間であったり、ある強力なボスが率いる研究会の仲間たちだけでのワイガヤであった。そこでは、仲間内以外の部外者は見えないバリアに阻まれて参加が許されていない。
日本の伝統、あるいはお家芸といわれているワイガヤが個人主義の牙城である、イギリス人やアメリカ人のような社会で、効果をもたらしている。それはこれらの国では、ワイガヤを実践したおかげで、幾多ものベンチャー会社が成功している、という一見、非常に矛盾した現実がある。
この不可解な状況はどのように理解すればよいのであろうか?
私の考えではワイガヤ自体の効果が変質したのではなく、経済環境が変質したときに日本のワイガヤがその変化に正しく追随できなかったのに対して、イギリスとアメリカの潜在的ワイガヤ文化がようやく時代と効果的な相乗効果を生み出したと思う。
私の到達した結論を述べると、日本経済が世界を席捲していた 1950年代~1980年代は会社内だけのワイガヤで十分成果を得られた。つまり競争力のある製品、サービスを提供するのに必要な情報はすべて社内のどこかに沈殿していたのだ。ワイガヤはその沈殿物をかき混ぜることで、異分子同士のケミストリーを生み出し、その結果として斬新な製品ができてきた。
ところが、1990年から一社内の蓄積知識、情報だけでは足りなくなり、他社との緩やかな情報連結、いわゆるオープンイノベーションが勃興してきた。そうすると、ワイガヤが社内だけでなく、敵対企業の社員、異業種の人間が参加する必要がでてきた。現在の日本がうまくいっていない、という結果から逆に類推すると、日本人には不特定の人間の参加によるワイガヤのモメンタム・破壊力をうまく活用できていない、ということが分かる。その一方で、イギリスやアメリカのワイガヤは社内、社外を問わず真の意味でのオープンな環境の対等な議論が行われる。その結果、以前の日本の企業内で見られてような濃密なアイデアが次々と湧き出してきた、ということになる。
この点に考えが至ったとき、私には目の前の霧がすーっと霽れた。長年の課題が解決できたうれしさを味わったのもつかの間、すぐに、論理的にこの考えを進めてみると『内と外を峻別する日本の伝統的な考えが根本的に解消されない限り日本は現在のオープンイノベーションでは決してイギリスやアメリカに勝つことができない』という命題が見えてきた。もし、私のこの論理的推論が正しいとすると、ベンチャー企業のみならず、大企業も今後のオープンイノベーションの経済界ではなかなか勝者になれないということになる。今までより一層広く黒い雲が目の前に広がってきた気がして、私は一層滅入った気分になった。