田中城は長野県上伊那郡箕輪町三日町にあります。城主は福与城主であった藤沢頼親が武田氏の南進で福与城を追われ、流浪の後に箕輪に戻り天竜川沿いに田中城を築いたとされます。現況は工場地帯となり城郭遺構はほとんど失われていました。福与城や付近の城郭は天竜川の段丘の台地上に築かれていますが田中城は、天竜川沿いの低湿地に築かれ、往時の城郭の周囲は沼田だったとされます。今回の参考資料は (1)「信濃の山城と館 5」宮坂武男著2013 (2)「伊那の古城」篠田徳登1971 などです。
田中城 図2 参考資料⑵「伊那の古城」より転載 図を北上に回転加工
資料⑵によれば、城は正八角形で直径350mであったと記され、三方は沼田、東側は天竜川だったとなっていました。藤沢頼親が河岸段丘上に城を築かず、特殊な立地の田中城を築いたのは、どんな思いがあったのか、興味深いですね。
田中城 周囲の城郭は天竜川の河岸段丘上に築かれている
一般的には河川の河岸段丘上に築城されますが、あえて乱流が激しい暴れ天竜に接して築城したのは、より攻められにくいという判断があったのでしょうか。 福与城は→こちら
田中城 城の位置を想定する
明治40年測図の五万分の一の地図を見ると、天竜川は図3の天竜川旧河道の位置を流れていたようです。地図には線aがあり、城跡に沿って集落の境界線が在ったのではないかと想像しました。、今も南側に隣接して別の自治体の上伊那郡箕輪村となっています。城址碑の位置と線a、木曽川の旧流路などから直径350mの八角形の田中城の位置を大雑把に想定してみました。※資料⑴では往時の天竜川は田中城の西側を流れていたように記されていますので、時代によっては流路がさらに異なっていた可能性もありそうです。
田中城 城址碑のある残欠土塁 北西から
今は工場が立ち並んでいますが、少し前までは圃場整備が行われた田園地帯に城址の一部がポツンと残されていたようです。
田中城 城址碑 城跡標柱 案内板が立つ
北西隅の土塁状の場所には立派な城址碑が立ち、案内板や城跡標柱も立っていました。
田中城 城跡の標柱と案内板
わずかに残された城址の一部だけでも確認できると見学者にとっては貴重です。
田中城 現地案内板
藤沢頼親は箕輪に戻って田中城を築きましたが、徳川方に属した保科正直に攻められ、三日間にわたり抗戦しましたが、最後は城に火をかけ自決したと伝わります。その後飯田城主の小笠原秀政により陣屋が置かれましたが天竜川の洪水で流され、陣屋は箕輪城の近くの木下陣屋へと移されたとされます。箕輪城は→こちら
田中城 わずかに残る残欠土塁 南西から
往時の姿を伝えるものがほとんどなく、後の陣屋としての改変や洪水で流される被害などによって、残欠土塁も、どの部分だったかは不明のようです。
田中城 残欠土塁と平場 南から
資料⑴によると平場は30m×18mで、土塁はその北西隅の残されていました。
戦国の世の習いとはいえ、幾たびもの流転を繰り返した末に城の自焼と自決という結末を迎えた藤沢頼親のわずかな痕跡を探す見学でした。