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榑俣城 三河 主要な街道を扼する城郭 狼煙の中継点でもあったか

2023-08-17 | 歴史

榑俣城は愛知県豊田市榑俣町にあります。小原の市場城主鈴木(鱸)氏の家臣古山某などが付近に屋敷を持ち、城を管理したと伝わります。城の北側には「みだかり峠」があり小原村から飯田方面に抜ける主要な街道(飯田街道と呼ばれる)が通っていました。この街道は後世には馬車が通る郡道となりました。今回の参考資料は (1)「「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993  (2)「愛知県中世城館跡調査報告書2」愛知県教育委員会1994  (3)「小原の城郭」小原村文化財保護委員会(作図:千田嘉博)1993 などです。なお資料(1)の榑俣城の記事は浅井 敏氏による民俗学的な調査・考察も行われていて貴重な史料でした。


榑俣城 飯田街道を扼するだけでなく狼煙の中継点としても重要な役割を担っていた可能性がある
 飯田街道を見下ろす位置にある榑俣城は、鈴木氏の勢力範囲をカバーする狼煙リレーの重要な拠点でもあったのではないかと思われます。東からの侵入は武田軍が想定され、小渡城などでは武田軍との戦いが伝わります。※小渡城は→こちら


榑俣城 南の矢作川に下る林道の途中A地点には古山氏が居住 
 「幟立て」は幟で情報伝達を行った地点と伝わります。A地点は今も古山さんがお住まいで、資料(1)によると城主を務めたかつての古山某の後裔の可能性が高いとされます。飯田街道は、かつては飯田に向かう道という意味で名付けられたのでしょうね。


榑俣城 みだかり峠 西から
 後世の馬車が通る郡道となった時に、峠は掘り下げられた可能性がありそうでした。道は車両通行止めとなっていました。榑俣城にはここから道がありました。図2の登城路途中のB地点には巨木の根元に石塔があり「享和元年 春恵尼」と陰刻されており、飯田街道で行き倒れた旅の尼さんを祀ってあるようでした。


榑俣城 飯田街道 東から
 みだかり峠から西側の飯田街道は現存していましたが、崩落部分などもあり荒れていました。資料(1)によると昭和47年の集中豪雨で歩くのも困難なほどの被害を受けたようです。


榑俣城 図2 C地点  南東から 飯田街道の東側が遠くまで見通せる
 C地点に城郭遺構はありませんでしたが、樹木が無ければ飯田街道の西側を遠くまで見通せる絶好の場所でした。B地点から樹木が無ければ東方向もバッチリ見えるようですので、街道を見張る榑俣城の役割が果たせたのではないかと想像しました。


榑俣城 北、西、南の三方向に帯曲輪を設けてⅠ郭の切岸を削り出している
 城の防御の要は切岸といわれますが、榑俣城は地形が急峻な東側を除いてⅠ郭の三方向を帯曲輪で削り取って切岸を造り出していました。Ⅰ郭から延びる尾根には堀切等の防御施設が設けられていました。なお往時も古山氏の屋敷がA地点に在ったとすれば南東尾根の→Ⅳ郭を経由して登る道があったと思われました。


榑俣城 Ⅰ郭  北東から 標高416mの三角点
 Ⅰ郭は南西隅が一段下がっていましたが、土塁等は見当たりませんでした。城域での耕作地化が在ったようですので、現況が往時の姿かどうかは確定できませんでした。


榑俣城 南西尾根の堀切➂と土塁④ 南東から    右上にⅢ郭
 榑俣城はいわゆる単郭の山城です。Ⅰ郭から延びる南西尾根には浅い堀切➂と土塁④が見られ尾根を断ち切っていました。現況は風化が進んだためか、浅い堀切と低い土塁となっていました。


榑俣城 竪堀① 手前に通路② 東上から
 帯曲輪状のⅡ郭とⅢ郭の間にはやや幅広の竪堀が設けられ、両曲輪の通行を制限していたようです。現況は通路②で両曲輪が結ばれていますが、資料(3)で千田嘉博氏は通路は無く、簡単な橋を渡して行き来していたと想定していました。


榑俣城 Ⅲ郭 西から
 Ⅲ郭はⅠ郭南辺の切岸を削り出すのを兼ねて設けられたように見えました。幅広でもあるので将兵の駐屯も可能だったと思われますね。


榑俣城 Ⅰ郭南辺の切岸 Ⅲ郭西から    高くて急角度
 Ⅰ郭の南辺の切岸は写真の様に急角度で高さもありました。「切岸が守りの要」を実感することが出来ました。


榑俣城 幅広の堀切⑤ 南東から 興味深い遺構
 北東尾根の半分を断ち切るように幅広の堀切⑤が在りました。資料(1)では耕作地化によって図3のaの部分は埋められた可能性を述べ、往時は北東尾根を断ち切る堀切だった可能性があるという見解を示していました。確かにそのようにも考えられますが、現地での表面観察では確認が難しかったです。


榑俣城 Ⅰ郭北西隅の切岸  右にⅡ郭 北東から
 Ⅱ郭は広い曲輪で、北尾根にゆるやかに下る地形となっていました。写真のⅠ郭北西辺の切岸bは角度が緩く高さも低い地形でした。資料(1)ではこの部分の土砂を崩して堀切aを埋めた可能性を記していました。


榑俣城 Ⅳ郭   東から
 Ⅳ郭は南東尾根とⅢ郭の南東部分の切岸を削り出していました。南東尾根を下ると林道に出ますが、資料(1)によると、付近の林道沿いにかつては集落があった可能性があるとされていました。


榑俣城 尾根の平場⑥ 南から
 南東尾根には尾根を掘り込んだような平場⑥が在りました。城郭遺構かどうかの判断は困難でしたが、後世の耕作地化との関連も考えられそうに思いました。

榑俣城は南側の防御態勢に比べて北側の防御態勢が弱い様に見えました。資料(1)によると後世の耕作地化による影響が排除できないようですが、今に残る飯田街道や林道と城址の関連など興味深い見学が出来て良かったです。