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朝比奈の城山 遠江その1 大迫力!全長500mの尾根に展開する遺構の残りが良い山城

2023-04-16 | 歴史

朝比奈の城山は静岡県御前崎市下朝比奈にあり南谷城とも云うようです。城主に曽根孫太夫長一の名が残り城山の北側山下に土塁で囲まれた屋敷跡が伝わります。今見る城址遺構は天正二年の武田勝頼の高天神城奪取以降の武田軍の補給路の一つとして改修を受けている可能性が指摘されています。今回の参考資料は (1)「静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978  と (2)「静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022 などです。◆城域が広いため その1、その2 でお伝えします。


朝比奈の城山 朝比奈川を挟んで北側には横舟城がある
 資料⑵によると、武田軍が横舟城とセットで朝比奈ルートの補給路を確保するために朝比奈の城山も改修・強化したと考えられる記されていました。


朝比奈の城山 南北500mの尾根に遺構が残る 
 規模が大きく図が見にくくなりますので、その1では図3と図5の部分をとりあげ、その2で中心部を図5で取上げます。


朝比奈の城山 城域北部の概略図3
 屋敷跡①東側の、尾根を利用した土塁Aは今も健在でしたが土塁Bは住宅建設で改変されたようでした。見学は公民館に駐車し金刀比羅神社から裏手の尾根aにエィヤッ!で登りました。


朝比奈の城山 尾根a     北から
 尾根aには道がなかったですが、足場は悪くありませんでした。


朝比奈の城山 小ピーク ア  北から 尾根bとの合流点
 尾根aを進むと土塁Aから続く尾根bとの合流点になる小ピーク に出ました。特段の遺構は見当たりませんでした。


朝比奈の城山 尾根b北側の 平場36  南から
 小ピーク ア から尾根bを北に下ると平場36がありました。屋敷地①のすぐ上にある見晴らしのきく場所でした。ここから北に向けては尾根を利用した規模の大きな土塁となっていました。


朝比奈の城山 土塁A 尾根を利用した規模の大きな土塁 南から
 写真でもわかるように土塁Aは2階建住宅よりもはるかに高く、尾根の地形を利用したものでした。土塁の北端部は道路工事で削られたようでコンクリートの高い擁壁となっていました。こちら側からの見学路はなさそうでした。


朝比奈の城山 土塁B 今は住宅用建設で削られたか 西から
 土塁Bは資料作成の近年まで残っていたようですが、住宅建設のためにほとんどが削られ、はっきりした地形は確認できませんでした。


朝比奈の城山 堀切C 北から   奥上に小ピーク ア
 資料で堀切とされる堀切Cは風化で埋まったかもしれませんが、自然地形に近い輪郭がはっきりしない浅い堀切でした。


朝比奈の城山 小ピーク イ 北側のg尾根から
 小ピーク イ は、ほぼ自然地形のようで、人の手が加わっていないようでした。


朝比奈の城山 城域南東部の概略図4
 城域の南東部には、後世に開発された茶畑と道路がありました。特に興味深い遺構は用途が想像しにくい尾根下の17,18,19,20でした。


朝比奈の城山 堀切16 北から
 城域東端部の堀切16は資料には描かれていませんでした。堀切Cに似た地形でしたが堀切16は自然地形と見たのかもしれませんね。


朝比奈の城山 堀切G 東から
 堀切Gは5mほどの幅広で浅く、尾根の北側に設けられた片流の堀切で輪郭がやや不明瞭でした。


朝比奈の城山 堀切F 北から
 尾根を断ち切り東尾根筋からの侵入に備えた堀切で、残存状態も良好でした。


朝比奈の城山 右に堀切F 左に井戸地形15 北から
 資料には描かれていませんでしたが、堀切Fに隣接して井戸地形と見える凹み地形15がありました。自然地形とすれば大木の根こそぎ転倒の跡でしょうか。


朝比奈の城山 竪土塁17 北東上から
 竪土塁17は自然地形の小尾根を土塁状に削り残し通路としたたように見える地形でした。ここを降りると平場18,19,20がありました。この竪土塁は東からの侵入への備えにも見えました。


朝比奈の城山 平場19 南東から 右手に一段上がって平場18
 平場18と19はきれいに削平されていました。二段になった平場は意味ありげですが、資料(1)では17,18,19,20は描かれていませんでした。


朝比奈の城山 平場20 北西から
 平場19に隣接した平場20がありましたが、この平場群の目的はハッキリしませんでした。山畑跡とも見えますが竪土塁17との関連があるとすると城郭遺構かもしれません。

朝比奈の城山は約500mと長大ですが、尾根に残る堀切のいくつかは自然地形に近いものもありました。その2で見学する図4の城山中心部は城郭遺構が密度濃く残っていました。※その2へ続きます。