城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

美濃・城山砦 その1 往時の道を想定しながら明確に残る城郭遺構を見学する

2022-02-01 | 歴史

城山砦は岐阜県恵那市上矢作町漆原にあり漆原城、阿寺砦とも呼ばれます。元亀元年(1570)上村合戦で武田軍が侵入した際に戦った遠山勢の拠点の一つとされます。その後武田氏の支配するところとなり、改修が行われた可能性があるとされます。
 今回の資料は(1)岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第3集 岐阜県教育委員会2004  (2)「信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編」宮坂武男編2015 などです。
 その1 では城山砦の周辺の道を中心とし城址遺構の一部も掲載したいと思います。 その2では城郭遺構中心に掲載します。見学当日の現地には雪が残っていましたが支障なく見学できました。


城山砦 上村川に突き出した尾根の先端部に所在   なぜここに築かれたのか?
 城山トンネルが開通し257号線が通るまでの主要な道は城山砦の北から南に流れる上村川の対岸(右岸)に有りました。武田軍の南下に備えるのであれば主要な道があった上村川右岸に砦を築く必要があったのではないかと考え、往時の道の状況を探ってみました。


城山砦 中馬街道C・Dは江戸時代以降に開発された道、往時の道はAかBを想定
 中馬街道が通る上村川右岸の道は上村川右岸に突き出した の岩尾根部分に阻まれて往時は軍勢が通れるような道がなかったと考えてみました。往時の道は城山砦のある左岸の尾根を越える道A、または城山砦の山下を巻くように通る道Bだったのではないかと想定し、それぞれの道を見学してみました。


中馬街道 図2-1 あ を南から 岩尾根が上村川に突き出して道はなかった
 上村川が東から流れて岩尾根にぶつかって南に90度方向を変える地点が です。江戸時代に入って交易が活発になり中馬街道が出来、馬による輸送が行われるようになって岩尾根先端を削った道ができたと考えられ戦国時代には軍道はなかったのではないかと想像しました。中馬街道も当初は岩尾根先端を巻く細い道だったのではないかと思います。現在の道は車の道で、岩尾根を大きく削り取っています。


中馬街道 あ 地点の石仏群 街道沿いにあった石仏を集めて祀っていると思われる
 図1の大馬渡峠越は中馬街道の中でも難所とされ、多くの馬が命を落とした場所だったようで馬を弔う石仏が多数建てられていたようです。


中馬街道 右手に登る道Dに「中馬街道馬車道」の表示版が立つ     北東から
 左側は現在の道ですが右に登る細い道に「中馬街道馬車道」の表示版がありました。この時点では馬車道の意味がよくわかりませんでした。


中馬街道 大馬渡峠 登り口    当日は雪が残っていた
  地点から現在の道を南に200mほど行くと 地点に「大馬渡峠登り口」の表示版と道標の石柱があり、谷あいに西へ登る細い道が有りました。この道Cが本来の中馬街道で、馬車道Dは後世になって馬車が通れる道を敷設したと云うことがわかりました。

ここまでの見学で、中馬街道が出来るまでは 地点の岩尾根に阻まれて、行軍の可能な道は無かったのではないかと想像しました。


城山砦 城山砦の山下を巻くように通る歩く道B 南から
 上村川右岸には軍道は無かったという想定で右岸の城山砦付近を見ると、砦の山下を巻くように歩く道Bが残っていました。今は車の通れる農道が別に上村川河岸に設けれれていましたが、道Bは最近まで使われていたように見える状態でした。往時から在った道とは断定できませんが一つの候補として見ました。


城山砦 峠越えの道A 南西から   
 峠越えの道Aは城山砦の見学路にも利用されています。途中害獣ゲートがありますので、開け閉めして進みました。


城山砦 峠越えの道Aは墓参の道となった
 今は峠道の下に城山トンネルが掘られて257号線が通りましたので、峠道Aの必要性は無くなっていますが、城山砦に隣接して設けられている墓地への墓参の道として、また城址見学の道として利用されていました。往時の道AとBは越沢地区で合流し、上村川を渡っていたのではないかと想像しました。越沢の地名がいかにも川を越す場所という地名に思えますがどうでしょう。


城山砦 北西方向へ備えた砦のように見える
 三作集会所に車を止め、案内板のあるトンネル左脇の道を登ると道Aに出ました。尾根まで登りきると峠には平場が有りました。ここから北東へ下る道と墓地へ登る道がありました。遺構の地形を見るとⅡ郭は道Aに備えているように見えました。Ⅰ郭の北西尾根には二条の掘切が設けられていて、北西下の道Bに備えていたように見えました。南西尾根には掘切がなく備えが甘いように思いました。


城山砦 Ⅱ郭の虎口⑤ 不明瞭になっている  南から
 Ⅱ郭の東側は墓地として利用されているために、往時の遺構や城道は不明瞭になっていました。Ⅱ郭の虎口⑤は南東隅に開いていましたが、写真のように風化のためか不明瞭な地形になっていました。


城山砦 Ⅱ郭には方形の窪み⑩がある 西から    
 Ⅱ郭は道Aへの備えだったのではないかと想像しました。資料(2)ではⅡ郭の窪みの北辺は土塁として見ています。掘切イとオの間を登ってくる敵を上から攻撃する塹壕状の備えだったように見えます。


城山砦 Ⅱ郭を巻く横堀アと土塁①  手前に竪堀オの頂部  南から
 Ⅱ郭の東側は複雑な構造をしていました。武田軍による改修は此の辺りだったのかもしれないと想像しましたが、道Aに対する備えとしてはとても厳重な感じがしました。


城山砦 竪堀オ 西上から
 道Aからの回り込みを阻止する竪堀オは土塁とのコラボで一層厳重な備えだったように見えました。

城山砦が上村川左岸に築かれたのは、往時の右岸には行軍出来る道が無かった為と想像しました。
 ※ 城山砦 その2ではⅠ郭とその周囲の遺構を見ていきたいと思います。