吹田の古い街道を巡り浜屋敷でいっぷくしました。浜屋敷はいつ来てもきれいに手入れがされています。
冬になれば、火鉢に炭をおこし、暖を取っています。
休憩の後、浜屋敷のすぐ前にある観音寺を参拝しました。
次に向かった「吹田の渡し跡」はもう何回目でしょうか。いつも疲れ、前の大きい川をぼーと眺めていただけ
でしたが、今回は腰を入れ聞いていました。
「吹田の渡し」についての説明書きが建てられていましたので転載します。
このあたりは、もと神崎川の船渡しであった吹田の渡しがあったところです。この渡しは大阪から丹波へ
向かう亀岡街道の渡しで、西国街道につながり、また、古代では三島路であったとみられる交通の要地で、
「摂津名所図会」などにも記されています。
かって、三国川と呼ばれていた神崎川は、奈良時代末期に淀川と直結し、京都と西国つなぐ水路として
発達しました。そのころから、吹田は津(港町)として栄え、また、その景勝をたたえて、貴族達が訪れました。
鎌倉時代には西園寺公経が別荘「吹田殿」を設けたことも知られています。
室町時代には水運はますます盛んとなり、江戸時代には、過書船株をもつ家がありました。明治になって
鉄道が開設され、水運が衰え始めましたが、昭和初めまでは吹田浜には回漕業者があってにぎわっていま
した。
吹田の渡は、、もともと川幅も広く、堤の間が約230間はあり、ここを渡し船が通いました。江戸初期では
渡し船は一艘でしたが、幕末には五艘になっており、大正時代の記録では一艘に30人と牛馬5頭を乗せる
ことができました。明治8年に渡し船は廃止され、有料の高浜橋が架けられましたが、神崎川の付け替えに
よって、新たに高浜橋が架けられ、この旧橋は大阪府に寄付され、修築されて、現在の上高浜橋になってい
ます。
吹田市教育委員会
END