しなこじダイアリー

日常生活のあれこれ

朝顔まつり

2012-07-08 09:22:20 | Weblog

                  台東区入谷の朝顔市は下町に夏を告げる行事です。
                  去年は自粛したので2年ぶりの開催、鬼子母神・真源寺の
                  周辺で3日間開催の初日、6日の早朝でかけました。
                  

 

                 

             まず鬼子母神さんにお参りして、小さな朝顔が付いたお札を受けました

 

            

                   境内にも朝顔がならびます

 

      

            約60の露店に約10万鉢が並ぶそうです

 

           

               行灯仕立てといいます

 

      

               開くと一重になるききょう朝顔、花の形から付いた名前でしょう

 

 

 

      毎年ひと鉢友人に送りますが、今年はこのオーシャンブルーにしようと決めていました

 

        

           オーシャンブルーは(琉球アサガオ・宿根アサガオ)通常の朝顔とまったく
           違うところがいくつかあります。

               

             種ができない、越冬する、夏でも昼まで、秋には夕方まで咲くところ

 

               

                団十郎という品種 (ちょっとボケ写真です)が茶系統で
                役者団十郎が好んだ茶色から名前が付けられたと
                いいます。   前回はこれを買いました。

                白い縁取りがあるのは新種、昔からのは縁取りなしです。
                1件のお店で聞いたら、改良される前の鉢が何鉢かあった
                そうですが、早朝のお客さんが全部買われたとの事。
                

 

               

                行灯作りのには3,4色を組み合わせてある鉢もあります

 

        

          朝顔は俳句では秋の季語 [朝顔に つるべ取られて もらひ水] 加賀千代女

 

        

 江戸時代2度のブームを機に、品種改良が大きく進み観賞用植物となり、木版画の図譜類も
 多数出版された。
  
 世界的に見てもこれほど形態が多種多様に変化した園芸植物は他になく、ほとんどの変異は
 江戸時代に生まれたものである。

 

                

                    (曜白という種類)

                  朝顔の茶会

                千利休は満開の朝顔を一輪のこして摘み取り、見物に来た
                豊臣秀吉を迎えた。
                秀吉はいぶかしんだが、茶席に生けた一輪の朝顔に感動したと
                伝えられる。
                利休が茶の心を示した故事である。

 

                

                   鬼子母神前の歩道にならぶ朝顔の露天

 

        

         沢山並んだオーシャンブルー、行灯作りにはなっていたけど、よく伸びています。
         今年の朝顔市に買おうと決めていた品種だからでしょうか、目に付きました。

          江戸時代珍奇な品種は愛好家たちが、普通の品種は、植木市や天秤棒を
          担いだ朝顔売りから買うことができました。

          一般受け用の朝顔は江戸では御家人などが、内職として栽培していた、
          これが発展し、明治時代の初期から入谷の朝顔市が始まった。

 

              

            ワンちゃんを抱いたとびっきりの笑顔の女性は、売り子さんでなく
            いろいろな種類のワンちゃんたちを散歩させていたグループの
            1人、朝顔を背にわんちゃんを抱いて写真をとろうとしていたら
            お店の人が一鉢前に置いてくれた、素敵だったので撮ってしまった。

 

                朝顔の花言葉
            明日も爽やかに、はかない恋、あなたに私は絡みつく、平静、愛情。

 

               

                 朝顔市は 地下鉄日比谷線、入谷駅を出るとすぐ前
                  (これは帰り道9時ごろ) 

               ”朝顔まつり”となっているけど、”朝顔市”の方がなじみ深い。
               (今日8日まで開催)

 

               江戸時代からの”変わり朝顔 ”は何年か前に向島百花園で
               展示され見たことがあります。
               今年も開催されるようでしたらまた紹介したいと思います。


         
                  


「江戸名所図会」を中心に江戸の面影を訪ね歩く 「湯島・本郷」その二

2012-07-05 20:59:02 | Weblog

                「江戸名所図会」は全7巻20冊の地誌で、天保5年、7年と
                10冊づつ2度にわたって出版されました。    

 

            

                     霊雲寺

             本堂と開山堂が描かれ、境内には舞い上がる鳩と親子連れの姿が見える

             

                  

                       惣門

               神田明神と湯島天神の間に位置する霊雲寺は真言律宗の寺院です

               不許軍辛酒肉入山内(くんしんしゅにくさんないにいるをゆるさず)
                  (軍ー>草冠がつきます)
               門の左の石柱に書かれています。 
                  (にら・にんにくなど臭気の強い野菜や酒肉は修行の妨げに
                   なるので境内に入ることは許さないという意味)

 

                  
                       本堂の潅頂堂    

                    仏の教えを実践する道場であるため葬儀は行わない

 

                  

                        開山堂

                    本堂の左に描かれている開山堂は現在も同じ位置

 

                  

                    寺の創建と同じ元禄四年鋳造の梵鐘の鐘堂は再建中

 

                   霊雲寺を出て清水坂を左折、湯島天神に向かう途中にも
                   何箇所か坂があります。
                                    

 

            

                   実盛坂 (さねもり)

                       

                          階段がある坂も多い

 

                 

                       湯島天満宮に到着

 

              

                  遠くに不忍池や寛永寺が見える景勝の地だったようです。
                  中央の鳥居の両側に坂の字が見える、右が男坂、左が女坂。
                  この辺りの茶屋は近くに寛永寺など寺が多かったせいか、
                  陰間茶屋が多かったという。

 

                  

                     霊夢により菅原道真(菅公)を祀る

 

                  

                     神田明神につぐ草分け神として信仰された

 

                  

                         瓦斯灯

                 青白いガス灯、清らかな白梅は、新派「女系図」(泉鏡花作)の
                 別れの場にふさわしい。

                 昭和56年新しく設置された。  側に新派の記念碑がある

 

        

            絵図にあった坂の場所には緩やかな女坂(左)と急な男坂がありました  
          

 

                

                    本殿前左にある石柱 「奇縁氷人石」

                 右側面に”たづぬるかた”  左側面に”をしふるかた”と
                 刻んである。 (嘉永三年(1850)の建造)

                 迷子さがしの石で、尋ねる人は人相特徴を書いて貼り、
                 知っている人はどこそこにと書いて貼っておく。
                  (一石橋際(中央区)と浅草寺仁王門際にもあった)

 

           

                  泉鏡花筆塚  昭和17年(鏡花没後3年)に建てられた
                            (鏡花使用の数百本の筆墨が埋めてある)

 

                  

                    天満宮の夫婦坂を春日通り、切通坂方面に出ます

 

                  

               「御府内備考」には「切通しは天神社と根性院との間の坂なり、
               本郷三,四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。

               湯島の台地から御徒町への交通の便を考え、新しく切り開いて
               できた坂なので、その名がある。

               かつて本郷三丁目交差点近くの理髪店の2階に間借りしていた
               石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り道通った坂道である。
              <二晩おきに夜の1時ごろに切通し坂をあがりしも 勤めなればかな>
                  石川啄木

 

                  次の目的地は湯島四丁目

                 

                       麟祥院  

              三代将軍家光の乳母春日局の隠棲の場として、寛永元年(1627)
              創建され、死後菩提寺となった。
              局の法名麟祥院殿仁淵了義により、麟祥院となる。
              (寺宝に家光により奉納された狩野探幽筆の春日局像がある)

              

                     

                       無縫塔  (卵塔)の墓

                寛永20年65歳で没。 卵塔には四方に穴が貫通している
                死後も政道を正すといわれる。

                     

                   春日の局(お福)が嫁した稲葉家の墓もありました

 

                春日町交差点近くに局の屋敷があったといわれ、春日の町名の
                名のおこりとなった、そこに稲荷社が祀られ、出世稲荷という、
                麟祥院の前の通りは春日通り。

 

            

               この日は200名もの人が次々通過、お地蔵様も驚かれたことでしょう

 

             春日通を本郷三丁目交差点まで行く間に旗本近藤登之助の屋敷があった、
             向かい合って前田家の屋敷、旗本と百万石大名のちょっとした争いがあり、
             騒ぎをおさめたのは水戸光圀。

             おもしろい話でしたが、もちろん今ではまったく当時の面影も無く、話を
             聞いただけで通過、三丁目交差点を本郷通りに曲がると見返り坂です。

 

                 

            「かねやすはいつも祭りのよう」  享保年間(1716~36)本郷三丁目東角
            (現在のかねやすの向かい側)に兼康祐悦という口中医師(歯科医)が店を
            開いて乳香散という歯磨き粉を売った。
            これが繁盛して、いつも祭りのように客が群れたという。

            「本郷もかねやすまでは江戸の内」 享保15年(1730)に大火があり、
            湯島や本郷一帯が燃えた。

            町奉行の大岡越前守は、再興家屋本郷三丁目から南は、耐火のための
            土蔵造りや塗屋にし、屋根は板や、茅葺を禁止し、蛎殻葺にすることを
            命じた。
            それで土蔵造りや塗屋の江戸の町並みは本郷三丁目まで続いて、それから
            北の赤門方面の中仙道は、今まで通りの板や茅葺の町並みであった。
            その境目の大きな土蔵造りのかねやすが目立っていたのだろう。

            「本郷はかねやす」  芝神明前の兼康が屋号の元祖争いの訴えを起こし、
            町奉行は、本郷は仮名、芝は漢字と採決した。
                          
                 (現在はかねやす洋品店)

             

            

            

               本郷三丁目交差点を赤門のほうへ向かうと見返り坂

             罪を犯して江戸を追放される者が、この別れの橋で放たれ、三丁目よりの
             坂で親類縁者の見送りの人が涙で見送ったから見送り坂。

             追われる者が名残を惜しみながら見返り見返り上がったので見返り坂と
             いわれた。
             (この辺りは土地がへこんでいて、橋がかけられていた(別れの橋)

             今から500年も前の江戸市内、北の外れはこの辺りであった。
             現在の雑踏の中に立って見返り坂、見送り坂の故事を思うと、一瞬
             まわりの音が消えて、ふぅ~とそんな光景が見えたような気がした。

 

                  

                       大クスノキ  本郷一丁目 (文京区保護樹)

                  一樹で森
                樹齢600年、平成3年司馬遼太郎は、この地を訪れ、「その甲斐
                庄喜右衛門の屋敷跡に、今も一樹で森をおもわせるほどのクスノキが
                そびえている」と「街道を行く」に書いた。

                甲斐庄は明治維新後「楠」と改姓。  楠正敬は旧旗本屋敷の最後の
                当主である。

                 楠は残った  屋敷は大正初め売却、実業家駒澤傳吉の所有となり
                大正9年ごろ豪壮な西洋館を建てた。
                その後、レストラン楠亭となり、平成9年改築のため解体されたが、
                シンボルの大楠は残された。

 

                   大クスノキの下を通り、壱岐坂を経て「昌清寺」に向かいます。

 

                   

                 竹千代(家光)と二歳違いの弟国千代(忠長)の乳母於清の墓がある
                 「昌清寺」

                 於清は名門の出で教養高く忠長の乳母となった。
                 忠長夫人於昌の方は忠長の死後剃髪し、於清も剃髪し昌清尼と
                 称した。

                 昌清尼は忠長を手厚く供養、その死後5年の寛永二十年ここで没した
                 遺言により亡骸は高崎の大信寺忠長の傍らに葬られた。

 

                   

                         昌清尼墓

                   ここのは分骨で世間にはばかるようなささやかな墓である。

         

                   長くなりました、東京都水道歴史館は次回にします。

 


「江戸名所図会」を中心に江戸の面影を訪ね歩く 「湯島・本郷」その一

2012-07-02 06:32:13 | Weblog

           

    江戸の面影を訪ねて湯島・本郷界隈を歩く「えど友」この日の集合場所は「御茶ノ水駅」
      (地図の右下が出発地御茶ノ水聖橋口)

 

            

                  早めに集合場所に着いたので12人ずつ順次出発の第1班、
                  まず御茶ノ水駅すぐの聖橋を渡り塀の中に見える湯島聖堂に
                  向かいます。 塀の手前の道は相生坂。

 

                  

                   聖橋は神田川に架かり、下をJRや地下鉄が通ります

                   聖橋 湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖を結ぶ橋として
                       命名された。
                       御茶ノ水三名橋「お茶の水橋、昌平橋」のひとつ。

 

            

              絵図は聖橋上方から神田川北岸の聖堂を望む。
              絵の上部に「大成殿」  学問所のあった左手上部辺り、現在は東京医科
              歯科大学や順天堂大学があり教学の伝統を引き継いでいる。
              手前は水量豊かな神田川。 
              規模は小さくなっていますが、聖橋から眺めると坂道と塀沿いの聖堂、
              同じ光景です。

 

                 

                   絵の左中央にある「入徳門」は工事中で、横から入り
                   「杏壇門」を入ります。

 

            

                     大成殿

 

                  

                    五代将軍綱吉により建てられた本来は孔子廟

                    聖堂には孔子など儒教の先哲の木像・肖像画が
                    安置されているが、それらを「先聖」として祭る儀式は
                    年2回、酒、肉を供え経典の講義をした。
                    それは今も行われている。

 

                  

                     聖霊獣 鯱の一種、通常は虎頭魚尾だがこれは
                     龍頭魚尾で頭から水を噴き上げている。

                     水を噴きだして火災から建物を守る意味がある。

 

            

                楷の木   孔子の墓所に植えられている名木を種から日本で育てた

             枝や葉が整然としているので書道でいう楷書の語源ともなったといわれる。

 

                  

                    孔子銅像   丈高15尺(4,5m)世界最大の孔子像

 

                  

                  絵図の右下にも描かれている迎高門 を出て左に曲がると

 

                  

                   昌平坂です  1790年(寛政9年)幕府直轄教学機関
                   「昌平坂学問所」となったところ辺り

 

                  

                「昌平坂」とは孔子の生地である「昌平郷」にちなんで命名された

 

                  

                    昌平坂を登ると湯島坂のすぐ向こう側は神田明神

 

            

             江戸城から表鬼門に位置し、「江戸総鎮守」として幕府はもちろん江戸
             庶民の崇敬をうけた。
             境内には多くの境内社や、石造物、石碑、町内の守護神や商売の神様、
             寄進された狛犬や水鉢など、当時の世相や因縁に関する物が描かれる、
             今でも境内に似たような様子が見られます。

 

                 

                       楼門 (左中あたりに描かれている)

 

                 

                      江戸っ子の氏神様である

 

                 

                       威風堂々?筋骨隆々な狛犬

 

                 

                境内の東側は崖淵で江戸の町々を見下ろす景勝地であった
                  (今も坂で東側からは階段を上り境内に入ります)

 

                  

                  神馬  「神幸号」・・通称「あかり」平成22年生まれの
                        雌馬  現在の色は「あし毛」 年をとると
                        白馬になるそうです。

 

                 

                 獅子山   名工石切藤兵衛作 「関東三獅子」のひとつ
                         上が親獅子、崖の下に子獅子

 

           

               本社の祭りは天下祭りであるので江戸一の豪華な祭りであった。
               
               氏子の町々より練物車楽(だんじり)等を出す中に「大江山凱陣」
               「牛若丸奥州下」など・・・
               「大江山凱陣」は昔から有名な源頼光の大江山鬼退治の古い噺に
               ちなむもの、幟の署名は「東江源鱗」となっている、神田三島町に
               住んだ書家である。 中国の書法にも詳しく、著書も多いという。
               商家では盛装して行列見物をした。

 

                 

              本社東側には野村古道作、映画、テレビで人気の「銭形平次」石碑、
              神田明神下に住む岡っ引き(寛永通宝の投げ銭で有名)でした。
              有志の作家と出版社が発起人となり寛永通宝をかたどり建立された。

 

 

         

               天下祭り、江戸時代に城内に入れた神輿の神輿倉

 

                

                    稲荷社の向こう、梅雨の晴れ間が見えました

 

         

               江戸神社                魚河岸水神社

 

               

                

                   神田明神の裏手にこんな場所がありました


                神田明神横の清水坂途中にある妻恋神社に寄ります

 

             

             妻恋神社に向か侍と下男 下男は奉納と書かれた絵馬を持っている 

 

                  

                    日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る

 

              

            その昔、日本武尊の東征のとき、三浦半島から房総に渡る時、走水で
            大暴風雨にあい妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じて
            海神を鎮め、尊の一行を救った。

            途中湯島の地に滞在したので、郷民が尊の姫を慕われる心をくんで、
            尊と姫を祀ったのが起こりと伝えられている。
            後に稲荷明神を祀った。  

            関東惣社の稲荷  江戸時代に妻恋稲荷の名で有名で、王子稲荷と並び
                         参詣人が多かった。

 

           

              夢枕  江戸時代から神社に伝わる木版刷りの縁起物
                     
            空襲で版元が焼け、版木も焼けたとされていたが、昭和52年無傷で
            見つかった、図柄はめでたい宝船と鶴亀の二種類である。

            正月二日夜、絵を枕の下に敷いて寝ると、よい夢を見るという。

            妻恋坂  神社はもと旧湯島天神町にあったが、明暦の大火(1657)後
                   現在地に移った。  神社の前を妻恋坂という。

 

            「その一」はここまでとします、この辺りは坂道が多く、聖橋を渡った
            相生坂から昌平坂、湯島坂、清水坂、妻恋坂、立爪坂、すぐ近くにも
            樹木谷坂、横見坂と本当に坂道の多い地域です。

            ここまででまだ全行程の4分の1ぐらい、出発する前に、今日は坂道が
            多く大変ですよと言われていましたが・・・。