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日常生活のあれこれ

「江戸名所図会」を中心に江戸の面影を訪ね歩く 「湯島・本郷」その二

2012-07-05 20:59:02 | Weblog

                「江戸名所図会」は全7巻20冊の地誌で、天保5年、7年と
                10冊づつ2度にわたって出版されました。    

 

            

                     霊雲寺

             本堂と開山堂が描かれ、境内には舞い上がる鳩と親子連れの姿が見える

             

                  

                       惣門

               神田明神と湯島天神の間に位置する霊雲寺は真言律宗の寺院です

               不許軍辛酒肉入山内(くんしんしゅにくさんないにいるをゆるさず)
                  (軍ー>草冠がつきます)
               門の左の石柱に書かれています。 
                  (にら・にんにくなど臭気の強い野菜や酒肉は修行の妨げに
                   なるので境内に入ることは許さないという意味)

 

                  
                       本堂の潅頂堂    

                    仏の教えを実践する道場であるため葬儀は行わない

 

                  

                        開山堂

                    本堂の左に描かれている開山堂は現在も同じ位置

 

                  

                    寺の創建と同じ元禄四年鋳造の梵鐘の鐘堂は再建中

 

                   霊雲寺を出て清水坂を左折、湯島天神に向かう途中にも
                   何箇所か坂があります。
                                    

 

            

                   実盛坂 (さねもり)

                       

                          階段がある坂も多い

 

                 

                       湯島天満宮に到着

 

              

                  遠くに不忍池や寛永寺が見える景勝の地だったようです。
                  中央の鳥居の両側に坂の字が見える、右が男坂、左が女坂。
                  この辺りの茶屋は近くに寛永寺など寺が多かったせいか、
                  陰間茶屋が多かったという。

 

                  

                     霊夢により菅原道真(菅公)を祀る

 

                  

                     神田明神につぐ草分け神として信仰された

 

                  

                         瓦斯灯

                 青白いガス灯、清らかな白梅は、新派「女系図」(泉鏡花作)の
                 別れの場にふさわしい。

                 昭和56年新しく設置された。  側に新派の記念碑がある

 

        

            絵図にあった坂の場所には緩やかな女坂(左)と急な男坂がありました  
          

 

                

                    本殿前左にある石柱 「奇縁氷人石」

                 右側面に”たづぬるかた”  左側面に”をしふるかた”と
                 刻んである。 (嘉永三年(1850)の建造)

                 迷子さがしの石で、尋ねる人は人相特徴を書いて貼り、
                 知っている人はどこそこにと書いて貼っておく。
                  (一石橋際(中央区)と浅草寺仁王門際にもあった)

 

           

                  泉鏡花筆塚  昭和17年(鏡花没後3年)に建てられた
                            (鏡花使用の数百本の筆墨が埋めてある)

 

                  

                    天満宮の夫婦坂を春日通り、切通坂方面に出ます

 

                  

               「御府内備考」には「切通しは天神社と根性院との間の坂なり、
               本郷三,四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。

               湯島の台地から御徒町への交通の便を考え、新しく切り開いて
               できた坂なので、その名がある。

               かつて本郷三丁目交差点近くの理髪店の2階に間借りしていた
               石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り道通った坂道である。
              <二晩おきに夜の1時ごろに切通し坂をあがりしも 勤めなればかな>
                  石川啄木

 

                  次の目的地は湯島四丁目

                 

                       麟祥院  

              三代将軍家光の乳母春日局の隠棲の場として、寛永元年(1627)
              創建され、死後菩提寺となった。
              局の法名麟祥院殿仁淵了義により、麟祥院となる。
              (寺宝に家光により奉納された狩野探幽筆の春日局像がある)

              

                     

                       無縫塔  (卵塔)の墓

                寛永20年65歳で没。 卵塔には四方に穴が貫通している
                死後も政道を正すといわれる。

                     

                   春日の局(お福)が嫁した稲葉家の墓もありました

 

                春日町交差点近くに局の屋敷があったといわれ、春日の町名の
                名のおこりとなった、そこに稲荷社が祀られ、出世稲荷という、
                麟祥院の前の通りは春日通り。

 

            

               この日は200名もの人が次々通過、お地蔵様も驚かれたことでしょう

 

             春日通を本郷三丁目交差点まで行く間に旗本近藤登之助の屋敷があった、
             向かい合って前田家の屋敷、旗本と百万石大名のちょっとした争いがあり、
             騒ぎをおさめたのは水戸光圀。

             おもしろい話でしたが、もちろん今ではまったく当時の面影も無く、話を
             聞いただけで通過、三丁目交差点を本郷通りに曲がると見返り坂です。

 

                 

            「かねやすはいつも祭りのよう」  享保年間(1716~36)本郷三丁目東角
            (現在のかねやすの向かい側)に兼康祐悦という口中医師(歯科医)が店を
            開いて乳香散という歯磨き粉を売った。
            これが繁盛して、いつも祭りのように客が群れたという。

            「本郷もかねやすまでは江戸の内」 享保15年(1730)に大火があり、
            湯島や本郷一帯が燃えた。

            町奉行の大岡越前守は、再興家屋本郷三丁目から南は、耐火のための
            土蔵造りや塗屋にし、屋根は板や、茅葺を禁止し、蛎殻葺にすることを
            命じた。
            それで土蔵造りや塗屋の江戸の町並みは本郷三丁目まで続いて、それから
            北の赤門方面の中仙道は、今まで通りの板や茅葺の町並みであった。
            その境目の大きな土蔵造りのかねやすが目立っていたのだろう。

            「本郷はかねやす」  芝神明前の兼康が屋号の元祖争いの訴えを起こし、
            町奉行は、本郷は仮名、芝は漢字と採決した。
                          
                 (現在はかねやす洋品店)

             

            

            

               本郷三丁目交差点を赤門のほうへ向かうと見返り坂

             罪を犯して江戸を追放される者が、この別れの橋で放たれ、三丁目よりの
             坂で親類縁者の見送りの人が涙で見送ったから見送り坂。

             追われる者が名残を惜しみながら見返り見返り上がったので見返り坂と
             いわれた。
             (この辺りは土地がへこんでいて、橋がかけられていた(別れの橋)

             今から500年も前の江戸市内、北の外れはこの辺りであった。
             現在の雑踏の中に立って見返り坂、見送り坂の故事を思うと、一瞬
             まわりの音が消えて、ふぅ~とそんな光景が見えたような気がした。

 

                  

                       大クスノキ  本郷一丁目 (文京区保護樹)

                  一樹で森
                樹齢600年、平成3年司馬遼太郎は、この地を訪れ、「その甲斐
                庄喜右衛門の屋敷跡に、今も一樹で森をおもわせるほどのクスノキが
                そびえている」と「街道を行く」に書いた。

                甲斐庄は明治維新後「楠」と改姓。  楠正敬は旧旗本屋敷の最後の
                当主である。

                 楠は残った  屋敷は大正初め売却、実業家駒澤傳吉の所有となり
                大正9年ごろ豪壮な西洋館を建てた。
                その後、レストラン楠亭となり、平成9年改築のため解体されたが、
                シンボルの大楠は残された。

 

                   大クスノキの下を通り、壱岐坂を経て「昌清寺」に向かいます。

 

                   

                 竹千代(家光)と二歳違いの弟国千代(忠長)の乳母於清の墓がある
                 「昌清寺」

                 於清は名門の出で教養高く忠長の乳母となった。
                 忠長夫人於昌の方は忠長の死後剃髪し、於清も剃髪し昌清尼と
                 称した。

                 昌清尼は忠長を手厚く供養、その死後5年の寛永二十年ここで没した
                 遺言により亡骸は高崎の大信寺忠長の傍らに葬られた。

 

                   

                         昌清尼墓

                   ここのは分骨で世間にはばかるようなささやかな墓である。

         

                   長くなりました、東京都水道歴史館は次回にします。

 


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