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日常生活のあれこれ

「江戸名所絵図」  湯島・本郷 その三

2012-07-11 06:58:27 | Weblog

               旬の話題を先にUPしましたので、湯島・本郷界隈を歩いた続きです。

               最終訪問地は「本郷給水所公苑」と「東京都水道歴史館」です。

 

            

              給水所公苑  東京水道局は明治25年本郷給水所を建設、同31年に  
              淀橋浄水場より送られた水を貯蔵する配水池が完成した。

 

            

               増大する水需要を支えるため、昭和49年配水池拡張工事が完成
               その配水池上部を文京区立公苑に造成した。

 

 

       51年に開苑、芝生の土手の上に造られ、「空中庭園」のようなここにはバラ園を
       中心とした開放的な西洋庭園、武蔵野の雑木林をイメージした和風庭園があり

 

                

                

                    大地球儀辺りは子供の遊び場にもなっている

 

                

                   神田上水遺跡の復元  発掘された石垣樋

 

                 

 

         

                     石樋脇の道から下へおりると

 

          

                    水道歴史館の入り口です

 

          

                 1階ラウンジのモニターにこんな映像で迎えてくれました

 

                 

                 
                    1階の村山貯水池取水塔の実物大再現

                 東京の近代水道が誕生して約100年、世界有数の規模と
                 内容を誇る水道へと発展した。

                 1階展示室では近代水道の歴史などが紹介されている。

 

                     2階展示室  江戸上水の歴史を紹介している
                               

 

                       

                  東京の水道の起源は、1590年、家康が江戸入りにあたり
                  つくらせた神田上水といわれる。

 

                  

                 江戸の繁栄に伴い、水不足から1654年玉川上水が造られた
                 上水は江戸の人々の生活を支えてきた。

 

                  

                  多摩川を水源として約43キロの水路を掘り、江戸市中に
                  導入する大規模な水道であった。

                  いちばん手前が多摩川の取水所である羽村、玉川の流れは
                  枝分かれをしながら江戸市中へ。

 

           

                東都名所御茶ノ水図

 

           

                 懸樋の模型

 

         

            木樋や継ぎ手の組み方に・構造などに江戸時代の技術の高さがわかる

 

                      

                  震災や戦争、渇水など数々の困難を乗り越え、規模
                  水質ともに世界有数のレベルに成長した東京水道、
                  その歴史も紹介しています。

 

           

                  神田上水懸樋    長谷川雪旦

            絵は湯島聖堂のほうからの眺めです、手前の橋は神田上水の懸樋です。
            渡った水は暗渠で江戸市中、城内へ給水されました。
            
            高い橋桁の間に見える遠くの橋は水道橋、大名行列が通っています。
            水道橋という名称は手前の神田上水の懸樋と平行して架かっていたからです

            水道橋の右手に連なっている門は「水戸家の上屋敷」です。
            川の小船には渓谷の見物に来たような客が乗っています。
            近くの昌平坂学問所の教授や近所に住む漢学者たちは、よく舟を出して
            四季折々の紅葉、月などを愛でたそうです。

 

            歴史を秘めた御茶ノ水
            
            現在の順天堂医院一帯に高林寺があった、その境内から名水がわき、
            将軍のお茶用の水に献上した、それで”御茶ノ水”の地名がおこった。

            現在の御茶ノ水駅前の交番横に、”お茶ノ水の碑”があるが、湧き水は
            ここではなく対岸の文京区側にあった。

            江戸時代の御茶の水の地域の範囲は、順天堂医院付近から水道橋までの
            間、神田川に面した辺りであった。

            本郷台と駿河台はもと地続きであった、 ここに進出して大筒を据えると
            江戸城は着弾距離の範囲内であった。
            寛永二年家光の命で政宗はここに空堀を造った。 これが御茶ノ水の谷で
            一名仙台掘ともいわれた。

            後、四代将軍家綱は神田上水の余水を流し、東京湾から舟を入れる工事を
            万治三年(1660)伊達綱宗に命じた。
            この堀は江戸城防備の軍事上のためであり、そのため江戸時代を通じて
            橋は架けられなかった。

            明治24年になってようやく御茶ノ水橋が架けられた。
            二度にわたりこの大工事を仙台藩に命じたのは、外様の雄藩伊達家の
            財政を苦しめるためであった。

            万治年間の工事に従った伊達藩内の内紛を題材にしたのが山本周五郎の
            名作「樅の木は残った」の小説である。

 

            江戸時代から谷の美しさは知られ、近くの昌平坂学問所の教官や青年たちは
            中国の名勝になぞらえて「小赤壁」と呼んで作詩に興じた。

                見下せば 木曽思い出す お茶の水」  (古川柳)

            景勝の木曽谷と比べられたほどであった。
            昭和の初めごろまで小学校の遠足の地ともなり崖に腰掛けて弁当を食べた。

            菊坂町に住んでいた樋口一葉は、橋の出来た2日後、橋を見に行った。
             「行きかふ火(ほ)かげもおかしく、金波銀波こもごもよせて、くだけては
              まどかなるかげ・・・」と日記に残している。

            いつもなんとなく通過していた聖橋やお茶の水橋からの眺めもこの日は
            違って見えました。
            お茶ノ水駅から聖橋を渡り出発した湯島・本郷歩き、坂道が多く疲れ
            ましたが、知っている街とおもった所でも、初めての所も何箇所もあり、
            歴史を知ると、街歩きはもっと楽しくなりました。
            帰りはお茶の水橋を渡り、駅に戻って解散、約3時間半の街歩きでした。

                   (6月10日)