月のたび

日々の日記

屁理屈にならない議論の仕方

2013-11-26 00:04:07 | 読書(興)
このごろ読んでいるのは大森曹玄著『山岡鉄舟』です。

おもしろいです。

どこがか?

内容的に、リクツで理解するものでないところが、面白い。

たとえれば、頭じゃなく、心でわかろうとすると、よくわかる、内容です。

最近のマイブームはです。

自分の中で、心と頭が対立するときが、よくあるんです。あるというか、心を静かにすると、心と頭が対立することが、いかに多いことか、気がつくようになりました。

たとえれば、頭でこねくり出して考えたものは、自分のずるさ、我欲が潜んでいること多いです。だから、頭で考えたものは屁理屈だと思うようにしています。このごろは、頭というより、心で考えたことをメモにして、そのラインに沿って考えるようにしています。

そして、山岡鉄舟本は、身の回りを、心で捉え直そうとしたときの感覚で書かれているような気がします。

どんな素晴らしい意見でも、心が無ければダメです。

それを強く感じるのは、たとえば、NHKの政治の討論番組を見ているときです(いつも2~3分しか見ませんけど)。

ああいう議論は生産的なのでしょうか。番組製作者は何の為にああいう無意味な番組をしているのでしょう。

屁理屈の言い合いと、議論が噛み合わない、噛み合ってはいけないという毎度同じパターンで、それを見ている人たちも、何も考えていないのでしょう。

でも、それ以上の議論のクオリティの高さ求めるのはムリそうです。これがマスコミの現実で、そもそも、心の底から出てきた意見であっても、マスコミのフィルターを通した瞬間に、良心は抹消される。テレビは人間の心を消してしまう。


テレビとはそういうものらしいです。


政治家の議論が屁理屈と、屁理屈に対する屁理屈、の応酬になるのはそのためでしょう。

話は飛びますが、明治維新を成し遂げたのは、だと思うんです。国を思う心。こういう心を敵も味方も持っていたから、お互い等しく持っていたから、心で話ができた。相手がたとえ屁理屈を言おうが、心から意見する者が、敵味方をこえて認められたと思います。ところが今では逆です。リクツとして妥当かどうか、の方が大事になっています。それがテレビ受けするからです。

原発事故の除染みたいに、リスクがあるかないか微妙な問題が生じても、心で考える習慣があれば、屁理屈の渦やマスコミの過剰報道に巻き込まれずに、多額の除染費用の発生を防げたかもしれません。

山岡鉄舟 (禅ライブラリー)
大森 曹玄
春秋社