「共感」と「他者理解」
-「思いやり」から「思い汲み」へ
人はよく「思いやりをもて」という。「人への気遣い」「人への配慮」「人へのおもてなし」、どれも日本では「よいこと」とされ、それが常に奨励されている。
その思いやりは、果たして正しいことなのか。「誰かを思いやること」は、福祉や保育の世界で本当に大事なのか。それを子どもに要請することは正しいことなのか。それ以前に「思いやり」とはいったい何なのか。
幼稚園や学校では、「思いやりの気持ちをもとう」「相手の気持ちを考えよう」「人にやさしくしよう」といったスローガンが掲げられている。これもまた、日本人が大好きなフレーズで、日本中で「思いやり」や「気遣い」や「やさしさ」という言葉が掲げられている。
だが、その一方で、「分かってもらえなさ」を感じている人が多いのもまた事実だ。「思いやり」の心が向かない人たちがいる。たとえば「ひきこもりの人」。彼らを思いやる人はあまりいない。「外国人」。彼らを思いやる人も日本ではまだまだ少ない。福祉の領域にいる人の多くが、「思いやってもらえてない人たち」だ。
思いやりとは何か。それを考える上で、有名な対立する二つの言葉が参考になる。すなわち、<シンパシー(sympathy)>と<エンパシー(empathy)>だ(compassionはどちらに近いだろうか?)。
シンパシーは一般的に「共感」「同情」と訳される。これは「相手と同じ気持ちになる」という意味だ。例えば「私はセブチが好き」「わー、私もセブチが好き」というのがシンパシーの典型例だ。「私、あの先生嫌い」「あ、私もあの先生嫌い」。これもシンパシーだ。しかし、これらはエンパシーではない(シンパシーは相手の気持ちそのものに向いていない)。シンパシーは、同じ気持ちになれる人やモノにしか向けられないのである。
他方、エンパシーは、もともとドイツ語圏で議論されてきた「自己移入(Einfühlung:感情移入)」という言葉の英製独語で、「em(in)」+「pathos(feeling)」から来ている。
このエンパシーは、「自分がもし相手の立場だったら」と考えるシンパシーとは別物である。そうではなく、目の前の相手(人でも言葉でもモノでも)に自分自身を投入するのである。その相手の世界に入り込み、その相手の視点から世界を捉えることが、エンパシーである(故に、ブレイディーみかこ氏はエンパシーの例として『他者の靴を履く』ということを挙げた)。自分が相手の立場だったらを自分で考えるのを止めて(脱我して)、相手の世界に入り込み、そしてその世界を自己に取り入れるのだ(これが「受容」の意味内容ともいえる)。
例えば、「セブチが好きだ」というTさんがいたとしよう。そのTさんがどのようにセブチがどう好きかをTさんに即して理解することが、エンパシーだと言ってもよい。自分のfeelingをTさんにINするのである。その際、私がセブチ好きかどうかは問題ではない。
その時に邪魔になるのが、実は「シンパシー」である、ということも知っておきたい。「私もセブチが好き」と言ってしまったその瞬間に、話の中心がTさんから「私」に移る。Tさんの「好き」が問題であるはずなのに、それが私の「好き」にすり替わってしまうのだ-こういうことをする人のことを「会話泥棒」と言うー。こうしたシンパシーを防止するために「非審判的態度」が支援者の原則として掲げられていると考えたい。そしてTさんの「好き」を深く理解することで、更に自分のセブチ理解をも深めるのである(「地平の融合」)。
福祉や保育の実践において重要なのは、「相手を思いやる気持ち」ではない。「相手に共感すること」でもない。そうではなく、「相手の思いを汲み取ること」であり、「相手に即して相手の存在を了解すること」である。故に、もし他者理解を試みるのであれば、「思いやり」ではなく、「思い汲み」を目指すべきだろう。
…つまりは、エンパシーを…。