Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

20年目の教師人生スタート! 20年目は、初心に戻って【ザッハリッヒ】にやっていきます!

遂に、20年目の教師人生が始まりました。

もう、中堅~ベテランの域に来た…のかな?

まぁ、まだまだまだまだですけども、、、💦

20年目の今、また教師としての自分の在り方が変わりそうです。

単刀直入に言えば、「もっと距離のある教育を…」って感じかな。

授業の向き合い方も、学生たちとの向き合い方も、もっとドライに…。

ドライっていうか、、、

Sachlich(独)

に!

僕の師匠がよく言っていた言葉ですが、20年目の今、この言葉が響いています。

カタカナ表記にすると、「ザッハリッヒ」(英語だとFactual)。

ザッハリッヒについてはこちらも参照

簡単にいうと、学生に介入することを控えて、事物や事実に即して教育を行っていくということ。

学生の心や思考や行動を対象化して、それをあれこれ考えるのを全てやめて、教えるべき事実や事物や文脈に意識を99%以上向けようかな、って、考えています。

「この学生は何を考えているのか」とか「学生たちを楽しませないと」とかと考える思考を封じて、「この事実をどうかみ砕いたら、どう説明したら、より伝わるかな」という思考に集中する、みたいな感じ?!

教師の仕事は、心理学者のように「対象となる人間」を分析するのではなく、「あらゆる事物や事実」を分析し、そしてそれを伝授するための努力、つまり教授学です。

この19年間で、自分が失ったものがこの教授学的な努力だった気がしているんです。

「学生たちに好かれているか」「学生たちに嫌われていないか」「学生たちに満足してもらえているか」…といった思考がどんどん強くなっていき、不安になり、怯えるようになっていった気もしています。

多方で、講義やゼミの質はどんどん薄っぺらくなっていったような…。

本来、「学問的な知識の伝達」こそが、高等教育にかかわるすべての人のミッションなはずなのに、いつしか、「学生の理解」や「学生たちのケア」が自分のミッションになってしまっていた、というか。

20年目の今、ここでもう一度、原点に立ち返る必要があるよな、、、と。

その時にふと思いついたのが、「ザッハリッヒ」という言葉でした。

DUDENの定義に従えば、


nur von der Sache selbst, nicht von Gefühlen oder Vorurteilen bestimmt; nur auf die Sache, auf den infrage stehenden Sachzusammenhang bezogen.

〔訳〕感情や先入見によってではなく、事物それ自体によって決められる様、つまり、事物や問題になっている事物の関連(文脈)にかかわる様


20年目の僕は、感情や先入観で動くのをやめて、事物それ自体、事実それ自体にだけ従っていこうかな、って。

もちろん、「学びたい」と思う学生たちとはこれまで同様に、しっかりと教育的関係を生きたいとは思いますが、それ以外の学生については、もう感情的にも行動的にも、意識しないで(且つ関与しないで)いきたいんですね。

ずっと、「みんなを育てなきゃ」とか「みんなに楽しんでもらわなきゃ」とか「全員を満足させたい」とか、そういう野心や野望が強くあって、その野心や欲望に従って、頑張ってきました。

が、それはとてつもなく難しいことでして…。

難しいだけでなく、そういう野心や野望が、自分自身を苦しめていることに、この数年で強く強く学びました。言い方はあれですけど、「どう伝えても、どう働きかけても、伝わらない人には伝わらない」、「それどころか、ねじまげて理解したり、歪んで理解したりして、逆恨みされたり、嫌悪されたりする」、ということを思い知りました。

では、どうしたらいいのか。どういう教育が必要なのか。どういう教育的態度がよいのか。それを呻吟する日々が何年も続いてきました。

で、たどり着いたのが、ザッハリッヒという、それこそ20年以上前に教えてもらった態度でした。

これは、「手を抜く」というのとは違うんです。むしろ、「更に自ら深く学ぶ」という態度なんです。「おもちゃ」にせよ、「保育」にせよ、「ケア」にせよ、「赤ちゃんポスト」にせよ、その事物や事柄にもっと忠実であろう、誠実であろう、という態度なんです。(これって、そもそも「現象学的態度」とも?!)

この20年で、そうした態度を失ってきたように思えてきました。

ただ、それって、実は「時代の流れ」とシンクロしていたりもします。

今の高等教育は、もはや「高等」ではありません。中等教育の延長線上でしかなく、またただの就職予備校でしかなく、教員に求められるのも、高等な知性ではなく、技術的スキル、コミュニケーションスキル、実務能力、社会人マナー、資格や免許の取得に必要な実務的知識の伝授、そんなものばかりになりました。

そうなると、学生をどう社会人にするか、どうスキルを身につけさせるか、どううまくコントロールするか(学生たちにハラスメントと言われないかたちで、どう社会が求める人材に変身させることができるか)に意識が向かうようになります。

これは、学生にとっても、教員にとっても、すごくストレスフルなんです。常に、学生のことを意識して教育することって、すごくしんどいんです。変わろうとしない学生に「変われ!」と(ハラスメントにならないように)促すことが、どれだけ苦しいことか…。

また、学生にとってもストレスフルなんです。「そんなんじゃ、社会人になれないよ」、「社会のルールやマナーを守れ」、「資格を取るためには、云云…」、「就職のために必要なスキルは、云々…」ばかり聞かされ、また、適性検査みたいなものをいっぱいやらされ、何のために学生をやっているのか、分からなくなるわけです。

そんな時代の流れに、自分自身も(知らない間に)染まっていたんだろうなって。

20年目の今、もう一度、初心に立ち返りたいなと思います。

どうなるかは分かりませんが、一度これまでのことをリセットして、再出発したいなぁって。(その環境はしっかり整った感じもしています)

教師として生きて20年目。つまり、ようやく大人の教師になったかな、とも。

とはいえ、教師としての大人に「なりたて」なので、これからが「本番」とも言えそうです。

事物や事柄を中心に据えた教育を頑張りたいと思います💓

 

師匠曰く、

「近年の教育論は、「共感」「協働」「他者理解」等々の言葉に象徴されるように、社会的・対人関係的次元に教育の課題を焦点化する傾向にある。しかも、そうした社会的次元への定位によって目指されているのは、「コミュニケーション能力」のような、人間の中にそなわっていて時と場合に応じて発揮されると考えられた抽象的な「力」の形成・訓練なのである。われわれが目論んでいたのは、こうした現代の教育論の支配的趨勢から多少とも距離をとって、モノとの関係という事象的・対物関係的次元で教育を捉えなおしてみる、ということであったと思う」(今井康雄編、『モノの経験の教育学』、東京大学出版会、2021:4)

ザッハリッヒな教育については、この本がとても良いです!!

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