はるか昔、僕もアイドルのファンでした。アイドルと言えば、小泉今日子さん。もともとはそれほど好きではなかったのですが、ドラマ『愛しあっているかい』を見て、小泉さんの大ファンになったのは、中学生の頃の話。アイドルと言えば、これまでもこれからも、僕の中では、ずっと小泉さんです。
そして、今の若い人たち(20代)にとっては、AKB48が少年時代のトップアイドルであり、前田さん、大島さん、そして今回引退を表明した渡辺麻友さんは、その中で最も輝いた女性アイドルだったのではないでしょうか?
渡辺さんは、もはや現役アイドルに興味のない僕でも(なんとかギリギリ)知っています。きっと若者たちの間では、(僕ら世代でいう小泉さんや松田さんや国生さんのような)ビッグネームだったのではと思います(そのあたりは、実感としてよく分からないのですが…)
でも、この数日、渡辺さん以外にも「引退」を表明する芸能人が相次いでいます。W-indsの緒方龍一さんも所属事務所との契約を終了し、グループ脱退を表明しました。お笑い界でも、ぼびぼびおさんが引退を表明しました。
この「引退ラッシュ」は単なる偶然でしょうか。それとも、「コロナ」の影響でしょうか。
その真意は分かりませんが、長引く芸能界の活動自粛とこの引退ラッシュは、決して無関係ではないように思います。これが正しい解釈かは分かりませんが、自分なりの見解といいますか、解釈をここに残しておきたいと思います。
この数か月、僕らは、これまで体験したことのない「時間」を過ごしたと思います。
従来の時間感覚が壊れ、そして、これまで経験したことのない時間体験をしたと思います。簡単に言えば、「朝起きて、仕事に行って、帰宅して、風呂に入って、寝る」という決まりきった日常の時間感覚が壊れ、朝起きてから、夜寝るまで、何もない時間を過ごす、という時間体験をしたと思います。
予定されていた仕事が全てなくなり、自宅での自粛生活(StayHome)を余儀なくされ、終わりのない(終わる見通しのたたない)何もない時間だけが続く生活が、この数か月続きました。
芸能界は、今回の新型コロナ禍の打撃をもろに喰らった業界の一つでした。多くの芸能人が「これからどうしよう」「これからどうなるのだろう」「なぜ自分は芸能界で働いてきたのだろう」等々と考えたと思います。特にアイドルという存在は、idol=「神像」「偶像」「崇拝の対象」「虚像」「幻影」の存在であり、僕ら一般人には想像もできない重圧やプレッシャーや負担を背負う存在だと思います(アイドルをしたことがないので想像の域を出ませんが…)。
そうした重圧やプレッシャーを自覚していたかどうかは分かりませんが、今回の「長い自粛生活」の「途方もない無の時間」の中で、きっと色々と気づくことがいっぱいあったように思います。
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僕が生涯の師匠の一人と思っているドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの考えを参考にすると、「時間」には、非本来的な時間と本来的な時間がある、ということになります。(厳密にハイデガーの概念の整理はここではしません)
非本来的な時間というのは、上でいうところの仕事に忙殺される「決まりきった平均的な日常の時間」です。仕事があり、やるべきことがあり、それが持続的に繰り返される平均的な日常的な時間です。今回のコロナ禍で止まってしまったのが、この平均的で日常的な非本来的な時間だったと思います。(ハイデガー的に言えば、「平均的日常性」が崩れたと言えるでしょう)
その非本来的な時間に変わって湧き出て来たのが、日常の営み(特にお仕事)が全くなくなった「コロナ禍の時間」でした。仕事はない、すべきこともない、外にも出られない、なにもない空虚な時間、それは、自分自身の存在と向き合わざるを得ない時間、コロナ以前の状態にも戻れず、またコロナ後も描けない「今=現在」に留まるしかない時間、今ここに存在している生の自身に向き合わざるを得ない時間、すなわち、本来的な時間でした。
この本来的な時間において、顕在化されるのは、何らかの対象を恐れる「恐怖」ではなく、何が対象か分からない(あるいは己において漠と感じる)「不安」です。平均的な日常においては、「ステージを成功させなきゃ」とか「歌詞を間違えないようにしなきゃ」とか「最後まで歌い切らなきゃ」とか、そういう恐れを感じながら、すべき芸能の仕事に追われています。これはこれで極度のプレッシャーを感じてはいると思います。が、今回のコロナ禍による長い自粛生活で体験したのは、そうした日常的な恐怖とは次元の異なるものだったはずです。
ただの一解釈に過ぎませんが、渡辺さんも緒方さんもぼびぼびおさんも、人前でエンターテイメントを全うするという重圧のかかる仕事を真剣にやっていたからこそ、(僕ら凡人とは比較にならないほど)今回のコロナ禍による「時間体験の変容」が重くのしかかってきたと考えられはしないでしょうか?
渡辺さんの所属事務所のHPに、本日、契約終了のアナウンスが公表されました。そこには、「健康上の理由で芸能活動を続けていくことが難しい」という申し入れが本人からあったこと、「数年に渡り体調が優れず、これまで協議を重ねて参りましたが、健康上の理由でしたので身体の事を最優先に考え」たことなどが綴られていました。(詳しくはこちら)
また、W-indsの緒方さんの所属事務所のHPでも、緒方さんの引退理由が示されています。彼自身の言葉で、次のように綴られています。
この数年間、精神的に不安定なことが続いていました。こんな状態のまま活動を続けていく事がw-inds.crewとメンバーにとって嬉しい事なのか、と悩むこともありましたが、自分にとって宝物のような存在であるw-inds.として活動を続けることを選んできました。ですが、改めてこれが自分に正直な気持ちなのかどうかを考えた結果、脱退という答えを出しました。
この彼の言葉に、「本来的な時間体験の意味」が示されているように思います。
渡辺さん同様、緒方さんもずっと体調不良に苦しみながらも頑張って活動を続けてきたそうです。そして、これまでずっと活動することを選び、頑張ってきました。
しかし、恐らくこのコロナ禍による「本来的な時間」を生きる中で、「改めてこれが自分に正直な気持ちなのかどうかを考えた」と彼は綴っています。まさに、この「改めて自分に正直な気持ちなのかどうか」を考える時間こそ、本来的な時間の意義なのだと思うのです。恐らく、われわれ凡人庶民には想像できないような「己への問い」に呻吟したと思われます。
ファンの人には申し訳ないのですが、このコロナによる「本来的な時間」は、渡辺さんや緒方さんにとっては、とても貴重で大切な時間になったのではないか、と思うのです。「引退を決意するためのかけがえのない時間」になったとも思うのです。この時間がなかったら、もっと深刻な状態に陥っていたかもしれません。自身の身体や精神を「気遣い」、そして自分自身の存在と向き合う、そんな時間がそこにあった、と言えるのではないでしょうか。
…
と、長々と偉そうに書いていますが…、僕自身にとっても、この数か月はとても貴重な時間となった気がしているんです。ずっと16年間、「先生」として突っ走ってきて、いいことも悪いことも経験してきて、色んな失敗や挫折もしてきて、「研究」と「教育」に没頭してきました。が、この数か月の間、その両方を手放してみて、色々と考えました。渡辺さんや緒方さんのような「眩し過ぎる世界」ではありませんが、それなりに大きなプレッシャーを感じる仕事でもあります。緒方さんの言葉も、なんとなくですが、自分なりにすっと入ってくるものがあるんです。
「自分はいったい何がしたかったんだろう」「なんで先生なんてやっていたんだっけ?」「これが、自分の目指してきたものだったっけ?」…
その中で、平均的な日常生活の中では気づけなかったことにいくつか気づけました。コロナ禍以前の自分には考え付かなかったような考えをもてるようになりました。かつての自分とは違う自分が生まれ始めていることにも気づきました。
今回のコロナ禍=世界的パンデミックは、(存在的には)確かに世界に大きなダメージを与えましたが、実存レベルでは(存在論的には)、実存の変容をもたらす大きな契機(本来的な決意)をももたらしてくれたのではないでしょうか。
本来的な時間体験は、例えば「戦争」だったり「死の宣告」だったり「強制収容所への送還」だったり、極限的な状況の中でしか得られないものだと語られてきました。戦争状態になった時に初めて本来的な存在になる、と言われても、今の僕らにはなかなかピンときません。
ですが、今回のパンデミックは、国家間での殺し合いのない状態で、また死の宣告のような極端な状況ではない状態での本来的な時間体験を可能にしてくれた、と捉えることもできなくはなさそうです。推測の域は出ませんが、渡辺さんにとっても、緒方さんにとっても、今回のコロナ禍は、これまでの生き方をがらりと変えるための(己の存在を本来的に気遣うための)生きられる時間体験だったのでは、と思いますし、また、自分自身にとってもそういう時間になったと思います。
ハイデガーは、決意した人間(現存在)についてこう述べています。
みずから選択した存在しうることのための目的であるものにもとづいて、決意した現存在は、おのれの世界に向かっておのれを解放するのである。おのれ自身への決意性が現存在をはじめて次のような可能性のなかへと連れ込むのである。つまり、共存在しつつある他者たちを、彼らの最も固有な存在しうることにおいて「存在」せしめ、この彼らの存在しうることを、手本を示し解放する顧慮的な気遣いのうちで共に開示するという可能性が、それである。決意した現存在は他者の「良心」となることがある。…
Heidegger, Sein und Zeit, SS.298, (p.477)
ちょっと難しい文章ですが(汗)、このハイデガーの解釈から、もしかしたら、今回のこの本来的な時間の中で、渡辺さんや緒方さんだけでなく、(僕を含む)多くの人が「解放」された可能性もあるのです。
それどころか、芸能界の中で輝き続けたお二人は、今後もしかしたら別の世界で、「他者の良心」になる可能性もあるのです。大胆に言えば、渡辺さんや緒方さんが、今後例えば大学で教員免許を取得して、小中学校の先生になったら、どれだけ多くの子どもたちに勇気を与えるでしょうか。W-indsって、考えたら2000年デビューのグループで、アイドル的芸能人としてはベテランさんです。それだけの経験を持った人が、そういう世界を離れ、別の世界で生きることで救われる人もたくさんいると思います。20年間、音楽シーンで活躍した教師が誕生したら、きっとその先生に関わる子どもたちの世界をぐっと広げてくれることでしょう。
人が輝く場所は、何も芸能界だけではありません。芸能界ほど輝かしい場所はないかもしれませんが、それ以外に輝ける場所はいっぱいあります。
今後、今回のコロナ禍で「芸能界引退」を表明する人が相次ぐかもしれません。ファンとしては辛いことだと思います。僕が大好きだったバンドが解散した時も、とてつもなく悲しいものがありました。でも、それをただ悲しむだけでなく、もしかしたら「次のステージへの出発」になるかもしれない、と考えることもできるかと思います。
お二人のこれからの人生に心からのエールを送りたいと思います。
僕も今月45歳。新たなステージに向けてのスタートを切りたいと思います。
了