最近、「見方を変えてみること」について、色々と考えています。
特に教育や福祉の領域では、「見方を変えて考えること」が、
一番大事な学びのような気がするんです。
例えば…
●「施設養護」より「家庭養護」の方がよい、と常識的に考えるのではなく、施設養護にしても、家庭養護にしても、どんな人とどんな関係を生きるかが実際には大事なのだ、と考えること。(どんな状況下においても、いい人はいるし、誰かの愛情を得ることはできると柔軟に考えておく)
●母子家庭の貧困が問題だ、ではなく、離婚後に(やむをえず)母子家庭になってしまうことが問題であって、貧困が予想される場合に、父子家庭になる選択肢が極めて乏しいことが問題なのだ、と考えること。
●虐待する親は、その親が「毒親」で、愛情に欠けた冷血な化け物なのではなく、自分の子どもを殺してしまうかもしれないくらいに、極めて危険な状況にある、というように考えること。
●結婚できないのは、(一般人が考えるように)貧困だから、なのではなく、結婚そのものに不安や心配を抱えていたり、異性の人と情緒的なコミュニケーションができないからだ、と考えること。(実際のところ、お金がなくても、「この人は人間的に素敵だ」と思えれば、結婚はできるし、そういう人は決して少なくない)
●恋愛における「両想い」は、目指すべき理想なのではなく、男女どちらもが、ドキドキしていて、相手のことを親身に考えるだけの余裕もゆとりもない悲しい現実なのだ、と考えること。(男女の双方がドキドキし合って見つめ合っていることほど、滑稽なものはない、と考えること)
●高校生や大学生が「ケータイ・スマホがないと生きていけない」というのは、もっともらしいけれど、実際には、生きていけないのではなく、自分が孤独に耐えきれず、誰かとつながっていないと不安になる、という(自立上の)大問題を抱えているだけだ、と考えること。(月に6000円払っているとすると、年間に72000円払っており、大学4年間で29万円ほどがそれに使われている、ということ)
●クレームをつけてくる人は、「困った人」、「面倒な人」と見なすのではなく、何かを必死に(不器用に)自分に伝えようとしている人、と見なすこと。
…
こういう例は、あらゆる場面で、考えることができると思います。
簡単に言えば、「常識的に、一般的に、事柄を安易に捉えないこと」。
けど、それがとても難しいことなのです。
ありとあらゆる場所で、「常識」は、教え込まれています。
それを「疑うこと」は、とても難しいし、その意味を理解することも難しい。
特に「正しいと思われていること」を疑うのは、かなりハードルが高いです。
僕らのあらゆる日常的な行為それ自体、「一般的に正しいと思われていること」に従っているわけで、いわば、「日常化」しているわけです。
そんな日常的な正当性を、「本当にそれは正しいことなのか」、と疑うことで、「見方」が変わるわけです。
ただ、一度、その「コツ」をつかみさえすれば、何気ない場面で、それができるようになります。
その「コツ」が何なのかは、僕にもまだ分からないけれど、、、
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第四土曜日の会でやっているのも、そういうことなのかな、と思います。
日常の中で、何気なくやっている「教育」や「保育」の現実を記述して、それを報告して、みんなで議論する。
その議論の中で、「なんか、違ったのかも?」という感覚になる。
そして、色んな人の意見を聞く中で、自分の「見方」ではない見方をするようになり…
別の仕方で、「起こった事柄」が見えるようになってくる。
そうすることで、これからの実践がまた変わってくる、というように。
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僕自身、常に、「この見方でいいのだろうか?」、と問うています。
というより、「自分のものの見方」を、信じないようにしています。
「キレイだ」と思ったら、その中に「グロテスクなもの」を見て、
「醜い」と思ったら、その中に「美しいもの」を見ようとします。
「好きだなぁ」と思ったら、その中に「嫌いなもの」を見て、
「嫌いだ…」と思うものの中に、「好み」となりそうなものを探します。
そういう努力を続けることで、より中立的で、より公正な判断ができるようになるのかな、と。
もちろん、その中立性や公正性も疑うわけですが、、、
この世の中、「こうだ!」とか、「こうすればいいんだ!」というようなものってほとんどなくて…。
なんとなく、そうなってしまっているだけ、というか、、、
とりあえずそれで一応うまくいっている、というか、、、
そんなもんだろうな、と思う今日この頃であります。。。