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Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

エジプトの教育学

「学校教育はいつどうやって生まれたのか?!」

これは、教育学の永遠の問いでもある。普通、大学の教科書やテキスト、あるいは教育学の歴史の本を読むと、ギリシャ時代から始まっている。特に、ソクラテス、プラトンが教育学上のスタートラインとなっている。特に、プラトンが創設した「アカデメイア」は、初の学校として時おり紹介されている。

が、僕的にはどうも納得できない。もちろん教育学においてもソクラテスやプラトンが創始者だとは一言も言っていない。むしろ、そのあたりについてはぼかしている。ただ、「ギリシャ時代」が教育学上の萌芽時代だと規定していることは疑い得ない。

「ギリシャ以前の教育学」、これに興味を持った僕はドイツの教育学の本を読み漁った。そうしたら、次のような文章を見つけた。これは、「ギリシャ以前」である、「エジプト」の教育に関する文章だ。エジプトの教育学、いったい古代エジプトでどのような教育がなされていたのか。どんな教育が行われていたのか。ある程度理解できるのではないか? とても興味深いテキストだったのでご紹介したいと思います!

エジプトの教育

考古学者の研究と今日大量に収集されている古文書を通じて、現在、古代エジプトの学校について分かっていることは、例えばハトシェプスト、ツタンカーメン、そしてラムセスを名乗る多数の担い手たちといったファラオのもとで最盛期にあった時代のエジプト新王国時代の情勢に関係しているものばかりだ、ということである。その時代は、ルクソール(古代エジプトの首都テーベの一部)やカルナックの寺院建設に成功した時代でもあった。この地で、おおよそ紀元前2000年から紀元前1500年の間の中間移行期に、墓碑銘ではあるが、最も古い学校の記述が見いだせるのも偶然ではない。その墓に埋葬されている者は、学校に通うすべての通学生を守っていた。通学者たちが彼の墓の前で死の祈りの言葉を述べれば、その者が彼岸で彼らのために力を尽くしてくれる、と言われている。

すでに古王国時代にもたしかに、個別授業で文字使用や一般行政の実務実践の手ほどきを行うために、「師匠―生徒―関係(Meister-Schüler-Verhältnis)」の枠の中で、ベテランの宮殿官僚が自分の国政(Haushalt)に若い男性を受け入れるということは日常的に行われていた。また同様に、祭司も寺院の中で自分の後継者たちと共にこうしたことを行っていた。しかし、新時代になると、国内の危機の後の再編成やそれに伴う高度な国家行政に大量数の官僚が必要になってくる。この時、常に大集団で一斉に若い人々に授業を受けさせることは非常に効率的であったのである。

このようにして発生した学校の授業では、主に読み書きが行われていた。だが、象形文字の読み書きは、複雑で手間のかかる作業であった。将来の行政秘書や宮殿官僚が使いこなさねばならない700ほどの文字を習得するためには、少なくとも四年間、人によってはそれ以上の時間が必要だ、とエジプト学者たちは考えている。象形文字の文字には、簡略書体もあった。「ヒエラティック(バビルスに使用された神官文字)」という。これは、習得するのが難しい音声文字であった。どこにも句読点がなく、縦と横の文字配列で書かれており、母音もない。

それ以外の授業内容には、日常的に身近で基本的な数学があった。これは、例えば面(平面)や立体(ピラミッド!)の計算、ならびに単純な計算処理(比例算/三率法:a:b=c:xまで)などを行っていた。それに加え、こうした活動には、知恵本とその中に集められたもろもろの戒律や行動規則が伴っていた。これらの事柄に目を向けることは、神の秩序やファラオに代表される秩序を伴う調和のある生活にとって必要不可欠なものであった。

温暖な気候のため、教授と学習は主に屋外で行われていたようだ。生徒たちは、筆で書かれた古文書の教科書などを手本にして、割れた粘土の壷の欠片の上に文字を書いたり、計算したりしていた。授業は、方法的に見て、極めて簡単でありきたりなものであったと言ってよいだろう。まず教師が先に書いて、読み上げる。生徒たちはその後に続いて書いて、声に出す。教師の指示で一斉に声を合わせて復唱し、質問に答える。それ以外では黙っている。これは、古代エジプトの授業の核であった。授業は教師に委ねられており、教師は体罰(身体的な罰)を多用していた暗記学習や絶え間ない記憶の反復練習には、あらゆる優れた意義が与えられていた。何といっても、ほぼ全く文字のない世界において、記憶の訓練は、後の時代、修業時代の終了後でも、あらゆる重要な情報に迅速に対応するための唯一の手段だったのである。

こうした基本的な教養の習得は、若いエジプトの青年にその権利が与えられ、おおよそ5歳から始められていた。こうした教育は、官僚後継者や祭司後継者だけでなく、寺院に掲げられた宗教的文章を読まなければならない芸術家や工芸職人にも必要とされた。さらに、将来の建築士や医師や法律家にも及んだ。というのも、効率的な行政機構と同様、文化的・権力政治的な例外的地位にいるエジプト人も、独自の判決(裁判)に基づいているからである。根源的な専門職業教育は、学校教育(学校陶冶)に続いており、更には、個々人の「師匠―生徒―関係」の枠内で行われていたのだった。こうした地位の高い職業的専門教育を選出しなかったすべての人々―農夫、工芸細工職人、兵士、そして女性らは学校には通わず、ゆえに読むことも書くこともできなかった。

エジプト独自の国家の滅亡と共に、重要な文化の担い手である古代エジプトの学校も徐々に消えていった。紀元前322年、アレクサンダー大王(アレクサンドロス三世)がエジプトを所有した。紀元前301年からは、プトレメール(プトレマイオス一世の父)が支配した。紀元前30年、エジプトはローマの属州になった。遅くともプトレメール支配の初頭には、エジプトの行政は、ギリシャのギュムナシオンを修了し、ギリシャ語による行政業務にあたっていた官僚の手に譲渡されていた。すでに紀元前4世紀には、地中海全域に広まった学校と、単に移住したギリシャ人によって育まれただけでなく、早急にエジプトの上層階級の親族らによっても受け継がれていたギリシャ-ヘレニズム的教養(Bildung)が、古代エジプトの学校という遺産を相続していたのだった。エジプトの学校は、純粋な祭司学校となり、寺院領域に引き下がってしまった。[だが]ローマの祭式(拝礼)と後のキリスト教を受け継ぐことで、書き言葉といったエジプト的なもの(Ägyptische)は衰退してしまった。また、ギリシャ文字が書かれるようになった。だが、7世紀~8世紀にアラブ人にエジプトが征服してしまったにもかかわらず、日常言葉として、話し言葉として、その言葉は生き延びた。無論、今日では、キリスト教少数派の中でほんのわずかながらに(コプト語として)使用されているだけではあるが・・・

エジプト時代の後、これまでの教育に欠けていたあらゆることが、「陶冶(教養教育=Bildung)」と翻訳するのが最も良い「パイデイア(paideia)」というギリシャの考えと共に生まれてきた。すなわち、人間の個性という考えが生じた。そして、「学校はただ単に伝統の保持や連続性の保障のために教育するだけでなく、批判や、古きものの修正や、探求や研究のために、教育しなければならない」という考えが生じたのだった。それに加え、ギリシャ時代になってようやく、学校は、単なる職業のための準備機関という暗い影から抜け出すことができたのだ。というのも、ギリシャでは、可能な限りすべての男性の若者を計画的に指導することは、政治文化の一部として、また民主的な政府形態の成功のための前提として考えられたからである。

*古代エジプトの象形文字はこちら↓
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/Prisse_papyrus.jpg


この文章から、僕らは、教育の根本的な問題に対する一つの解答を得ることができる。それは、「読み書き、計算、道徳(倫理)を教師主導で行うことが、そもそもの教育の原型である」、ということだ。それがいいことか悪いことかはカッコに括っておいて、まずは、教育は、教師が行い、そして、暗記させ、記憶させる。それが教育の原点なのだ。しかも、それは、職業に直接的に結びついている。

また、そうした前提があって初めてギリシャの教育に固有の価値を見出すことができるようになるのである。ギリシャの教育は、そうした教師主導の一方的な教え込み教育ではない別の観点を教育に取り込んだ。そして、体罰ではなく対話を積極的に取り込んだ。職業教育ではなく、人間教育に光を当てた。民主主義の原型ともなる礎を築いた。伝統や慣習の継承だけを目的とするのではなく、そうした伝統や慣習に対する批判や修正をも教育の目的に取り入れた。このエジプト-ギリシャの「教育の変更」は、現在のわれわれの教育のあり方についても色々な角度から反省させてくれるのではないだろうか。古代エジプトから学べることはまだまだありそうだ。

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