子どもの頃から思ってたことだけど、最近改めて考えさせられることがあります。
それは、この世の中は、僕がこの世から消えても、何も困らないし、この世界は相変わらずまわるんだろうな、ということです。特に職場でそれを強く感じます。いくら僕が一生懸命やっても、それで職場が盛り上がっても、そして、その先で、僕が消えてしまったとしても、職場は変わらず、何も変わらず、潰れない限り、進み続けるんだろうな、と。
どんなに頑張っても、所詮、僕らは組織の一部でしかなくて、僕らがいなくなっても、本質的に困るわけではないんですよね。当たり前の話ですが、改めて思うわけです。そんなどうでもいい「組織の一部」なのに、その一部として、必死に頑張る僕らって何なんでしょうね。
僕はブログをやってて、ラーメンフリークをやっているわけですが、誤解を恐れずに言えば、その動機として、世の中の人を動かしたいという欲求が奥底にあります。自分が推すラーメン店が繁盛すれば、それだけで嬉しいんです。一円も入らずとも、虚栄心が満たされるのです。不純な動機といえば不純。だけど、僕の心の奥底にそういう願望があります。いやらしい願望ですけど、あるのです。
それは、本を出すのも一緒だと思います。世の中に提言し、世の中を動かしたいと思って、本を出したいと思っているのです。キレイゴトを挙げれば、いくらでも言えるでしょう。でも、ぶっちゃけて言えば、そういう動機なのです。
バンドをやってた時も同じでした。「世の中を動かしたい」という「少年の大志」があって、それをモチベーションにして、夢を見てきました。ロックで世界を変えられる、と信じていました。「世界を動かしたい」という欲求は、誰にでもあるとはいわないけど、多くの人の願望になっているのではないでしょうか。少なくとも、僕の心の中では、バンドマン=救世主というイメージがありました。そう、救世主になりたかったのです(まぁ、妄想も甚だしいですが…汗)。
今、まさに話題のど真ん中にいる橋下さんを見ていると、本当に大きなことをしようとしているなぁと思い、羨望の目で彼を見ています。ある種、みんなの心の奥にある欲求を実現している人だな、と。心の奥の僕は、「いいなぁ。羨ましいなぁ」と思っています。あの立場に立ちたいとは思いませんが、第一人称的に語れば、「羨ましいなぁ」、です。そして、第三人称的に語れば、「危険なヤツ」なのですね。
けれど、実際のところ、彼がいなくなっても、大阪はなくならないし、大阪はそのまま残るわけで、大阪の人も、相変わらず生活を続けるのです。彼は今、時の人になっているけど、いなくなっても、大阪=世の中は回るわけです。どんな偉大な人でも、いなくてもいい存在なわけです。いなければ世の中が成立しないような人は、結局のところ、誰もいないわけです。神様くらいでしょう。…でも、それに憧れちゃうわけです。変な話ですが、、、
では、僕らはみんな、存在する価値のないちっぽけな存在なのでしょうか。上の理屈からいえば、誰も「いなくてよい存在」なわけです。誰もが、「代えのきく存在」であり、「交換可能」なんです。お金みたいなもんですね。10000円札なら、どんな10000円札でもいいんです。「この10000円札」というのは、基本的にあり得ない。どの10000円札も、価値は同じであり、どれでもよいのです。
でも、それじゃ悲しすぎます。自分を含め、全ての人間がとるに足らない存在でしかない、という結論は、なんとも否定したい気持ちになります。が、全ての人間が価値のある人間なのだ、ということを確信させる理論もないのです。いまさら、実存主義をもちだしても、リアリティーがありませんし、革命を鵜呑みにして、信じるほど愚かでもありません。
では、自分の存在の価値はどこに見出したらよいのでしょう?
代えがきかない場を探すしかありません。職場はダメです。職場は所詮職場です。いくらでも代わりはいます。医者だって、弁護士だって、学者だって、大企業トップだって、優秀な代わりはいくらでもいます。社会的地位の高さはほとんど問題になりません。どの職種であっても、代わりはいくらでもいるのです。
では、代わりのいない場所とはどんな場所であり、また、代えのきかない人とはどんな人なのでしょう。
代えのきかない人といる時、その時、自分はかけがえのない存在となり得るし、また自分にとって、その人はかけがえのない存在となります。そういう代えのきかない人と共にいる時にのみ、もしかしたら、自分の価値が見出せるのかもしれません。今の僕には、そう思えて仕方ないのです。
つまり、自分の存在の価値/無価値は、時間的なものであり、価値を見出せる時間と、無価値となる時間がある。職場にいる時は、無価値な存在を生きるのです。かけがえのない人と共にいる時は、価値ある存在となるのです。…というと、少し寂しいですが、そんなもんだと割り切って、働く方が気楽だし、また、本当に大切なものが分かってくるはずです。
仕事は、自分が生きていくために、したい/したくないに関わらず、しなければならない。食うためにしなければならない「仕方ないこと」です。だから、やるしかない。仕事で好きなことができる人は幸せですが、それでも、代わりはいくらでもいます。「今、自分がやっていることは、決して自分だけにしかできないことなのではない」、と常に意識しておく必要があります。そうでないと、勘違いをして、その今やれていることができなくなったときに、虚無に陥ってしまい、自分を苦しめることになります。
職場は所詮、そういう場所。そう割り切って考えた方が、自分の人生にとってはいいことのように思うのです。いずれ、どの道、その場から退くことになるわけですしね。
自分が誰にとって代えのきかない存在なのかは、分かりません。確かめようもありませんから。ただ、自分にとっての代えのきかない人は分かるのではないでしょうか?
僕も、考えてみると、それほど多くはないですが、たしかにいます。その人がいないと、本当に人生が狂う、壊れる、という人がいます。まぁ、壊れても、それでも世界は回るのでしょうけど、少なくとも自分の人生はまるっきり変わってくるはずです。同じようには回らなくなる、という意味で、自分の生活世界の回り方は激変します。
そういうかけがえのない人というのは、時間と共に作られていく気がします。単に恋人がいるから、というわけではなくて、その恋人と長い時間をかけて、かけがえのない存在に互いになっていくわけです。かけがえのない人というのは、短時間で作られるのではなく、長い時間をかけて、ゆっくりとそうなっていくのです。
こうして考えてみると、僕らが存在する意味があるかどうかは、どんな人とどう付き合っているか、ということと深くかかわっているように思います。どれだけ大切な人がいるか、どれだけその大切な人と深くかかわっているか、そういうところでしか、自分の存在の意味、価値というのは分からない気がします。つまり、関係のうちでしか、その価値は確かめられない、ということです。自分の意識の中でその価値を見いだそうと思っても無理なんです。だから、誰にも大切に思われていない人は、誰よりも辛いんだと思います。
最近、生活世界と制度の問題に興味があるのですが、制度というのは、こうした代えのきかない人と共にいる時間を守るために、存在するものであり、職場社会=産業界=経済界=資本家を守るためにあるのではない、と思うのです。今の制度社会(法、政治、権力)は、こうした「代わりのいる世界」をただ守るためだけにある気がしてなりません。ここで、経団連云々と述べる気はありませんが、少なくとも、政治や制度は、こうした産業社会を守ろうとすることに終始してしまっている気がしてなりません。
制度が守るべきは、あらゆる人の「かけがえのない時間」だと思います。簡単に言えば、休日や余暇、家庭や友人との交流、大切な人とのんびり過ごす時間、等々です。こうした時間をきちんと守るために、労働基準法等があるわけですし、その他いろいろな法律があるわけですよね。
もちろん、職場社会が崩壊しては困ります。生きる糧を得るために、それも、働くことのできる全ての人がちゃんと働けるように、社会を整えるのも、制度の責任です。
でも、もっと言えば、その制度を作るのは、他でもない僕ら自身のはずなのです。民主主義社会ですからね。きちんとよい制度を僕ら自身の手で作るためには、僕らみんなが賢くならなければなりません。本当に大切なものを大切だと思える感覚が必要です。本当に大切なもの、本当に守らなければならないもの、本当に必要なもの、それにきちんとみんなが気づけている必要があります。
それができないうちは、まだまだ成熟した社会とは言えないでしょうね。
あなたにとって、本当に大切なもの、大切な存在とは何ですか??
アドルノの言葉より
「交換原理(Tauschprinzip)、もしくは人間的労働の平均的労働時間という抽象的普遍原理への還元は、同一化原理と同根源的である。同一化原理は交換にその社会的原型を持っており、また同一化なしに交換もないであろう。すなわち、交換を通じて、非同一的な個別的存在やその成果は通約可能となり、同一的となるのである。この原理の拡大は世界を抑えつけて、同一的なもの、すなわち全体にしてしまう」(否定弁証法:178-179)
「非同一的なものの認識は、或るものが何であるかを言おうとするが、これに対して同一性思考は、或るものが何に属するか、何の範例或いは代表であるかを言う」(182)
「主体は、これまで自分が悪事を働いてきた非同一的なもの(Das Nichtidentische)に対して、償いをせねばならない」(178)