Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「儀式」と「規律」の本質的差異から不起立問題を考える-当事者として

昨日は、専任校の卒業式でした。

まずは、卒業したみなさん、本当におめでとう☆ 少ないだろうけど、このブログを見ている学生もいるからね。こんなブログを見ている学生はかなりマニアックな学生です(苦笑)

これからは、嘘と偽善で塗り固められた社会に飛び出るわけで、そんな汚れた社会の中でも、腐らずに、希望を捨てずに、そして、愛をもって生きていってほしいです。

卒業式やその後の謝恩会では、なかなか語れないからねー。とにかく、強く太くたくましく、子どもたちのために生きていってほしいです。本質を見失うなよ、と。


さて、本題。

このブログでも色々書いてますが、国旗、国歌と教育の問題です。色々批判的に書いていますが、卒業式に参列していて、僕も紛れもなくその当事者なんだなぁと思わされました。

卒業式では、当たり前のように「国旗」が掲げられ、卒業式の最初に「国歌」を歌います。僕は、そんなにこだわりがないので、普通に起立して、普通に国歌を(極めて小さく低い声で)歌います。その理由は、歌自体は大好きなんですけど、全員で歌うというのがどうしても苦手なので…という、つまらない理由です。

国歌については、(恥をさらして言えば)その内容自体、未だによく分かっていない、という。「いわおとなりて」という歌詞も、ずっと「岩男になって」だと思ってましたからね(苦笑)。 子どもの頃ですけどね。だから、今も、その箇所を歌うと、「岩男」が思い浮かぶんです。おぼろげなのですが、昔、何かの漫画・アニメのキャラに岩男(イワ男)っていませんでしたっけ?

それに、この曲って音楽的に結構不思議な展開の曲で、歌詞を問わなければ、なかなか魅力的なサウンドになっていると思うんですよね。アレンジ次第では、こんなのになりますし。


それはさておき、国歌斉唱の際の不起立問題を、「当事者」として、僕はどう感じたのか。それを書いておきたいと思います。

まず、大原則は、卒業式は、①学生のためにあるものである、ということ。②これは完璧に儀式である、ということ、それから③儀式を成り立たせる上で国旗・国歌は絶対条件になり得るのか、この三点が本質的な問題かな、と、参列しながら考えました。

まず①。一連の報道を見ていると、完全に「子ども不在」の卒業式論争になっています。僕は小中高の教師ではないので、完全な「当事者」にはなれませんが、僕は、あくまでも「学生たちのため」に参加しています。それ以外に理由はありません。学生たちが悲しむことはNG。学生たちが気持ちよく巣立っていってもらいたいと思うわけです。学生たちがしっかりと卒業式に参列しているのに、一部の教師が「起立」の時に、起立しなかったら、子どもたちはどう思いますかね。まずそれを僕は考えました。学生たちは何度も起立させられます。着席も。その繰り返しの多いこと多いこと。でも、健気にその指示を守っています。それは、何も「指示に従うこと」を大事にしているわけではなくて、卒業式を真面目に生きているのからです。その真面目さは、壊してはならないかな、と。参列しながら考えました。思想や主義の問題ではなく、学生たちと過ごす最後の時間を真面目に共に生きる、それが子どもを見送る、見届ける卒業式なのではないかな、と。

そういう意味では、卒業式は、「ホモ・ルーデンス」を書いたホイジンガの言う意味での「遊び」に近い気がします。遊びは、真面目であり、ホンキであります。それに、ルールがあり、それは時代に応じて変わっていく部分もありながらも、とりあえずは「絶対」です。権力がどうとか、体制がどうとかというのではなくて、ホンキで遊ぶためには、守らなければならないもの、それが遊びにおけるルールです。

それから②にいきますが、卒業式は、やはり「儀式」なのだ、と思いました。儀式は、形式を真面目に遊ぶものです。非日常に向かい、そして日常に戻る、その営みが儀式だと思います。卒業式を儀式だとすると、国旗、国歌はその入り口。そして、出口は「校歌」(うちの場合は)。国旗、国歌は、儀式の時間に移行するための一つの「スイッチ」みたいなものかな、と。「式」ですからね。儀式に、意味を求めてもあまり意味はありません。そもそも、そんなに儀式に意味はないですから。日本人がなぜ人と挨拶をするときにお辞儀をするのか。もう、それって、「そうだから」としか言いようがないわけですよね。そんな感じかな、と。

この「儀式」という視点から、一連の騒動を考え直してみると、「儀式」と「規律」がどうも混同されているのではないか、と思うに至りました。

政治家、官僚、行政機関等の「指示命令」を強化し、教師に政治的圧力をかけることはやはりいつの時であっても認められません。けれど、今回の問題の本質は、実はそこにあるのではないのでは、と思うのです。卒業式という子どもにとっての最大の儀式の中で、その儀式のルールを守れない人間が教師としてふさわしいのかどうか、と。言い方を変えれば、「せめて卒業式の時くらいは、みんなで共通のルールの上で、一つになろうぜ」、と。卒業式は、そんなに長い時間行われているわけではありません。わずかな時間に過ぎません。その時間を、儀式という形で、ある種、宗教的?神秘的?に過ごす、と。ただそれだけのことだと考えれば、せめてそれくらいは、みんなで「形式的な別れ」を共有しようよ、と。その形式に選ばれているのが、国旗であり、国歌である、と。(無論、戦前の大失敗を我が事として受け止めている先生には、この形式が認められないものであることは承知します。が、国旗や国歌は、儀式の際にはやはりどの国でも用いられているわけであるし、暗い過去をもっているにせよ、歌い継がれてきたものではあります。その部分だけは認めてもよいのではないかな、と)

ただ、橋下さんの言い方ややり方もかなり強引すぎました。「儀式を生徒と共に生きられない教師は、問題がある」と言えばよかったのではないか、と。一方的に「規律」「規則」「決まり事」とかというから、教員たちは反発したのではないでしょうか。「儀式」=セレモニーには、もうそれ自体、誰もが守らなければならないものがあり、そうでしかありえない約束事があるわけです。それは、国が定めたとか、条例で定めたとか、そういうことではなくて、誰が決めたわけでもないけど、守らなければそれ(卒業式)が成り立たない、そういうものです。

儀式は、人間の自由を侵すものではありません。逆に、それを守ってこそ、目的が達成されるものです。結婚式も、葬式も、お祭りも、クリスマスも、お正月も、みんなが守らなければ成立しない約束事があります。だから、外部から規律として「命令を守れ」という圧力をかけるのではなく、「儀式にはきちんと真面目に参加して」と呼びかけるべきだったのではないか、と思いました。

が、実際、教育の現場では、そんな優しい働きかけではなかなか改善されない、だから、橋下さんは、ああいうアプローチで、教師たちに圧力をかけたのではないか、そう思いました。それはそれでいたしかたないのかもしれません。けれど、別の言い方もできなのではないか、とも思います。橋下さんは、メディアに出る前は、子どもにホンキで向き合う異端児的(茶髪)弁護士であり、「ヤンキー先生」みたいな感じだったと聞きました。根っこにはそういう雑草魂がまだあると思います。ならば、雑草的に教員に働きかけることもできたのではないか、と。

「せめて卒業式の時だけでも、教員が一つになって、子どもたちをホンキで心を込めて、送りだしてあげよう。そのためには、しっかりと最後の儀式である卒業式のルールは守ろう。ルールのない遊びはない。子どもたちだって、みんな遊ぶ時も、学ぶ時も、しっかりとルールは守っている。遊びのルールを侵す人は、遊びには入れてもらえない、それが子どもの論理であり、正義です。ルールというのは、遊びを可能にするもであるし、儀式を可能にするものである。各人の日々の教育実践に、政治家や権力者が入ることはしない。けれど、儀式の時だけは、われわれ(行政)の目で確認させていただきたい」、と。

まぁ、それはそれでやはりおかしなこと、奇妙なことだと思いますし、管理的だと思いますし、教育のプロである教師にしてみれば、たまったものではありません。ただ、世の中はますます一億総監視社会・管理社会になっています。その論調は根深いものがあります(それを求める人自身も、監視・管理されているわけですけど)。そういう流れに逆らうことも大事ですが、教師と子どもの真実である授業や日々の学校生活が監視・管理でがんじがらめになっていなければ、それでよしとすることもできるはずです。教師は、卒業式云々ではなく、日々の授業でこそ、日々の活動の中でこそ、本分が発揮されます。いろいろな制約や縛りはありますが、それでも、日々の教育活動それ自体は、まだそれほどがんじがらめにはなっていません。

少し話は逸れましたが、卒業式を一つの儀式と捉え、その儀式は(クリスマスにツリーを飾ってジングルベルや真っ赤なトナカイを歌うように/結婚式ではウェディングドレスを着て誓いのキスをするように)儀式と割り切って、その程度のものだと思って、なんとなく過ごした方が、子どもたちにとっては嬉しいのではないかな、と。

最後に③に、学校の卒業式=儀式に、国旗、国歌は絶対的に必要なのかどうか、という問いです。公立小中高って、どれも市立・県立ですよね。中には国立もありますが。私立、県立の学校なら、国旗ではなく、県旗、市旗でもいいと思いませんか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%97%97%E4%B8%80%E8%A6%A7

県立高校なら、校旗と県旗でいいとも思うわけです。なぜ国旗でなければならないのか。儀式のルールとしては、国旗、県旗、市旗、校旗等の旗を掲げる、というのではいけないのでしょうか? 

それから、歌ですが、儀式には歌が不可欠です☆(いらないという声もありますでしょうが、そこは一つ大目に見ていただいて)。 欠かせないのは、校歌でしょう。校歌はやはり歌いたい。儀式の最初にもってくるものとして、校歌、あるいは国歌が、まぁスタンダードでしょう。ただ、国歌でなくてもよい。例えば、卒業式の定番としては、「ほたるの光」、「仰げば尊し」があります。僕は個人的には、この二つの歌は、卒業式に歌うと涙が出てしまうので、好きではないのですが、儀式の定番ソングではあると思います。それ以外だと、流行歌・俗歌になってしまうので、清い儀式にはふさわしくない。卒業式の後に、勝手にやってくれ、と。

そうすると、選択肢としては、校歌、国歌、それから卒業式の伝統をもつ歌、それくらいになると思います。二回歌うとするならば、最初はやはりかちっとしたものがよくて、最後はお涙系がよい(半分、ユーモアですよ)。どのタイミングでどの歌を歌うか、それは、各学校が議論して決めればいいことかもしれません。少なくとも、国歌を歌う論理性、整合性、合理性は、僕には見えてきません。重要な選択肢にはなるかもしれませんが、二曲だけだとしたら、校歌と伝統ソングがベストじゃないかな、と(僕は)思います。それを条例で、外部の人間が決めることの正当性は本当にあるのでしょうか。卒業式は、生徒、学生のものであり、また、彼らを必死に支え、教え、共に時間を共有した教師たち、その教師たちを支える人たち、あるいは父兄たちのものです。

と、考えると、やはり国旗、国歌が卒業式で歌われなければならない、という条例はどこか奇妙な気がしてきます。選択肢の一つとしては十分に「あり」だと思いますが、そうでなければならない理由はどこにあるのでしょうか。県民歌ではダメなのでしょうか? その正当な理由は?(特に、反中央・反官僚で地方分権を望む橋下さんならば、そう言うべきではないでしょうか?!)

千葉の県民歌
http://www.pref.chiba.lg.jp/kenmin/profile/kenminuta.html

ただし大阪には(なんと!)府歌がないんだそうです。このテーマについて述べている記事がありました。
http://pinecricket.blog.eonet.jp/default/2012/03/post-4c80.html
http://q.hatena.ne.jp/1305825080
https://twitter.com/#!/zhengping/statuses/70288588423696384
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1362670408
大阪市歌はあるみたいですね。
http://www.ocec.ne.jp/osakashi/citysong.htm


なかなか難しくて、割り切れない問題ですが、一番大事なのは、子どもの利益、子どもの気持ちから、考えることだと思います(ただし、子どもが歌いたいと思う歌を歌うことがよいとも思えない。少なくとも、儀式にはふさわしくない)。どんなに主義主張が正しくても、子どもたちがそれによって泣くなら、それはNOなんだと思います。子どもたちが(別れじゃなくて、先生の行為によって)悲しい気持ちになるのも、NOなはずです。

生徒・学生たちも、やはりいつの時代になっても、卒業式を楽しみに、というわけではないですが、大切な別れの儀式の日として、経験しているのです。だから、もっとこの問題については、みんなで議論しなければならないテーマではないかな、と。

そんなことを、当事者として、卒業式の場で思いました。

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