Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

エピクロスの思想

【翻訳】

 今日と同様、古代においても、「エピクロス学派」という語を聞くと、人は、快適で楽しい生活を目指す人間たち、と理解するのが常であった。エピクロスの哲学は、事実、-ゆえに、完全に配慮にかけた感覚的享楽に没頭する生活態度を正当化する哲学として-こうした解釈や評定が可能なのである。例えば、エピクロスは、彼自身の「隠れて生きよ」という標語でもって、明確に、「彼は国家と政治を軽視し、私的領域における生活を優先させた」ということを言葉で表現したとも言える。また、彼がアテナイで暮らし、教えていた時、「エピクロスの園」で営まれていた<朗らかで社交的な生活>は、彼の時代(彼は341年から270年まで生きた。サモス出身)には、とりわけエピクロスの反対勢力の下では、「エピクロスがあくなき感覚欲求の追求を教授した」という見解を裏付けていた。

 われわれは、こうした解釈がエピクロス的な倫理学を全く正当に評価していないということに気付くだろう。その前に、われわれは、さらに、エピクロスがストア派(禁欲主義者)と同様、倫理学の前段階として先行させた論理学と物理学に眼差しを向けてみよう。論理学がもろもろの誤謬(誤り)回避の仕方を教える限りにおいて、論理学は前段階である。物理学もまた、正しい行為に対する前段階に過ぎない。物理学は、「世界は完全に諸事物の自然な連関から、説明されねばならない」ということ、そして、「神々が世界を創造したのでもなければ、世界の流れ(経過)に介入することもない」ということを示し、人間を恐怖から解放する、という課題を持っている。エピクロスは、神々をただちに否定するのではない。そうではなく、彼によれば、神々は、「もろもろの世界の狭間」に生きている。神々は人間的な活動に関与しない。そして、それと同様、人間も神やデーモンに関与してはならないというのである。物理学的な世界認識の課題-ここにおいてエピクロスはデモクリトスの原子論(Atomlehre)と密接に結びつく-は、常に人間の精神を陰鬱にしてしまう超自然的な諸力に対する恐怖を人間から取り去ること、そして、この除去によって、人間に、エピクロスが事実提唱していた<地上の生活の完全な享受>に向かう能力や自由を与えることなのである。

 しかし、エピクロスは決してあくなき感覚欲求の追及を教えてはいない。むろん彼は、幸福を人間に固有な目的としているし、その幸福を非常に簡素に、快の獲得と不快の回避と定義している。だが、エピクロスは、「あらゆる種の度を越えたぜいたくは、なおさらより痛みを伴う悪化だけを招くだけであろう」ということを知っていた。ゆえに、理性が、幸せへの労力を導き、自制しなければならないのである。けれども、この理性は、「本来的な幸せは、むしろ朗らかな平穏のうちに、つまり、精神(魂)の安定した安らぎ(アタラクシア)のうちに見出される」ということを教えてくれる。ゆえに、エピクロスは、彼としばしば対比させられる禁欲主義者たち(ストア派)の生活直観と全く近い立場にいるのである。事実、彼自身の生活態度は、手本となるような節度に満ちた生活態度であった。彼は、真なる≫禁欲的な≪平静や自己支配でもって、彼の晩年の長い闘病(生活)に耐えたのである。

 エピクロスは、知識よりも、実践的な生活の知恵をより高次のものとしていた。彼は、身体の喜び-またその苦しみ-と魂の喜び-またその苦しみ-を区別している。肉体のもろもろの喜びは、<瞬間>に結び付けられている。魂は、過去の事柄のうちへと立ち戻って眺め、未来の事柄へ向かって先だって眺めることができる。つまり、魂は、目下の痛みに直面しても、過去の喜びを思い出し、未来の喜びをこちらへ引き寄せることができるのである。経験可能なものの彼方にあるがゆえに人生にとって重要ではない死に対する不安を払拭した者と同じように、神々に対する恐怖を払拭した者も、その平穏(安らぎ)を見出す。

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