金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

中国ショート論、勢いを増すか?

2011年01月24日 | 投資

エコノミスト誌がWaiting for the great fallという大仰なタイトルで中国弱気筋のショート戦略について言及していた。記事は著名なショートセラー・ジム・チャノス氏が昨年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで「中国の不動産バブルはドバイの千倍の悪い結果で終わる」と予想したスピーチの話から書き始める。

だが今のところ中国はチャノス氏や数少ない追随者が述べたようには崩壊していない。ただし株価は昨年14%下落している。チャノス氏は既に大変良い空売りだったと述べている。

ただし具体的に中国株を空売りすることは簡単ではない(特に中国人にとって)。何故なら中国では空売りは禁じられているからだ。空売りするには香港かニューヨークに上場されている株式を空売りすることになる。

また中国経済の大きな減速をヘッジするというマクロ的な観点から、世界規模のコモディティ会社の株を空売りしたり、中国ブームで高値をつけている豪ドルをショートする戦略を取る投資家もいる。

ただし冒頭「大仰なタイトル」と述べたとおり、中国弱気論者は未だ少なく、中国株ショートポジションの比率はNASDAQで4%、香港証券取引所で1%に過ぎない。ただし中国強気論者の中には慎重な姿勢を示すところもでている。エコノミスト誌によるとゴールドマン・ザックスのアジア・太平洋地域のチーフ・ストラテジストMoe氏は「アジアが米国をアウトパフォームするというより長期な図式は一休みをしている」と述べている。

今中国の前にあるのはバブルの崩壊とそれに続く混迷か?あるいは長期的な経済成長の中の一時的な足踏みか?は分からない。だが制御が難しくなりつつある人件費や食料費の高騰を見て、多くの投資家は中国に神経質になりはじめている。昨年前半は米国の二番底懸念が大きな関心事だったが、今年の前半は中国のインフレ対策の成否が大きな関心事になっている。

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「寄付」と「終活」雑感

2011年01月24日 | うんちく・小ネタ

伊達直人(タイガーマスク)を名乗る匿名寄付がマスコミの話題を賑わせて以来、寄付関係の記事を目にするようになった。今日の日経新聞クイックサーベイも「匿名寄付に共感」という見出しで寄付を取り上げていた。同紙は先月出版された「寄付白書2010年」が示した日本の個人寄付は5,455億円という数字を紹介している。私はこの本を読んでいないが、個人寄付額が従来政府が行なっていた統計よりかなり多い理由は宗教団体への寄付を含めたのだろうと推測している。

私は伊達直人寄付が有名になる前に「ニューファイナンス」という雑誌に「高所得者への課税と寄付に関する日米の違い」というエッセーを寄稿した。その時の論点の一つは日本の政府統計(家計統計)は宗教団体への寄付を含んでいないというものだった。

家計統計による世帯当り寄付金は年間2,382円で、これに信仰・祭祀費16,569円を加えると18,951円となる。これに総世帯数4900万をかけると日本の個人寄付の総額は9,286億円になる。米国の個人寄付19兆円の3分の1は宗教寄付なので、比較を行うなら日本の個人寄付に宗教寄付を加えるべきだというのが私の主張である。

なお私は日本の「葬儀関係費」(世帯当り15,608円)の中には「戒名料」などの形を取った寺院への寄付も含まれるので、この数値も考慮すべきだと述べた。

ところでこの「ニューファイナンス」にはコラムニストの櫻井秀勲氏が「サードステージの決め方」というエッセーを寄せられていた。ポイントは現在は「高齢者みずからが死と死後のことまで決めてから、あの世にいかなければならない」というところだ。このような活動を「終活」というそうで、櫻井氏は「人生は就活、婚活だけでなく、終活もまっている」と書く。そして「終活」は遺産はどうするか等書き残すことから始まると続けている。その中で「書籍から着物、洋服・・・まで分けてほしい人の名前まで記してある」用意周到な人がいるという話が出てくる。

ここで疑問に思ったことは「贈る人(つまり死んでいく人)は、満足して死んでいくかもしれないが、貰う人はどうだろうか?」ということだ。自分が本当に欲しいものなら、遺贈されてうれしいが、さもなければ負担に感じるのではないだろうか?つまり処分したいが故人の気持ちを思うとそうもいかず・・・という具合に。

むしろ「死者は生者を煩わすべからず」の原則に返り、こまごましたものを人に残すなどと考えない方が良いのではないだろうか?

藤沢周平の随筆「書斎のことなど」に次の一節がある。「物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんけしながら、やがてふっと消えるように生涯を終えることができたらしあわせだろうと時どき夢想する」

このような生き方と寄付を結びつけるならば、生きている間から過剰な物欲は捨てて、余裕ができればそれを寄付に回し、世の中の不幸な人に役立てることに努める。年とともに身の回りのものを整理処分し、必要最小限のものだけを身の回りに残して旅立つ・・・・というのが理想ではないか?と私は考えている。このような生き方を「終活」に対して「生活」と呼んでみよう。そうすると「終活」などという概念は実は生に執着した煩わしいものだということが見えてくるではないか?

今を生きる「生活」の一つの実現手段として寄付があると位置付けると我々の生活はもっと充実してくる、と私は考えている。そしてそのような寄付の対象から「宗教」を排除する必要はないと私は考えている。問題は多くの仏教寺院が「終活」に力を入れ過ぎ、「生活」を等閑(なおざり)にしている点だ。積極的に寄付をしたいと思うようなお寺が少ないことは、日本の寄付問題を考える時の一つの検討課題だろう。

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