金融そして時々山

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中国は「普遍的価値」を追求するだろうか?

2010年04月01日 | 国際・政治

今日(4月1日)の日経新聞朝刊・経済教室欄に野村資本市場研究所の関志雄シニアフェローが「中国は『中国的特色』より『普遍的価値』を追求するべきだ」という「主張」を展開してた。この問題について私は最近ある雑誌に小文を寄稿するため少し調べたので、コメントを述べてみたい。私が大いに参考にしたのはマーティン・ジャック氏のWhen China rules the world(邦訳はないが仮に題をつけると「中国が世界を支配する時」)である。同書は注釈まで含めると540頁にわたる大書(とても注釈まで読めませんでしたが)が、大きな特色は「中国はかくあるべき」というあるべき論ではなく、中国4千年の歴史的な伝統と思想を踏まえながら、中国が進む道を予測している点だ。

例えば関氏の論文にも出てくる「普遍的価値」という概念である。関氏は「普遍的価値」は民主や法治、自由、人権などで総ての先進国がこれらを共有している述べる。だがマーティン・ジャック氏は「普遍的価値」というものは、産業革命以降世界制覇を行った西欧・米国の価値観であり、かならずしも「普遍的」ではなく、世界には多様な価値観があると述べる。そして西欧の政治・国家観の基本になっているのは「国民国家」であるが、中国の政治・国家観の基本は「文明圏国家」だと述べる。

「国民国家」概念というのは、「領土・主権・国民(民族・言語等で同一性を有する国民)により構成される政治的共同体」で1648年のウエストファリア条約で確立された。「文明圏国家」とはあまり目にしない言葉で、原文Civilization stateを私が訳したものだ。中国の「文明圏国家」概念というのは、中国語を話し、儒教的な価値観を共有する大中国を中核に周辺国家を含めて構成される政治的共同体と解釈して大きな間違いはないだろう。歴史的に見ると「柵封(さくほう)」体制がこれに該当する。

このような「中国的特色」が良いのか「西欧の普遍的価値観」が良いのか?という問題を私はここで「思想的」に論じる積もりはない。つまり「あるべき」論はしない。むしろ2,3の事実ないしかなり高い蓋然性で起きうることをベースに「中国が進みそうな道」を推測してみたい。

まず経済的なパワーについて。これについては関氏も述べているように「中国のGDPは為替換算ベースでも2030年頃に米国を抜いて世界一になる」と予想される。また更に先を見るとプライスウオーターハウスは「2050年の中国のGDPを70兆ドル、米国のGDPはインドと並んで40兆ドル」と予想している。因みのこの時の日本のGDPは10兆ドル程度だ。余り先のことは予想に過ぎないので深追いしないが、経済の中心が米国から中国にシフトすることは間違いない。これにともなって中国語(マンダリン)を第一・第二言語とする人が拡大し、中国語が英語とともに、あるいは英語を超える世界言語になる可能性は高い。現在でも中国語(マンダリン)を第一・第二外国語とする人は10億人を超え、英語の5億人の倍である。このように中国が普遍的になるということは、中国的特長が普遍的なものに変わる可能性を示唆している。

中国のもう一つの特徴は「国として経済大国になっても、一人当たりGDPは長い間中位国のレベルに留まる」ということだ。2025年の中国の一人当たりGDPは1万5千ドル程度と推測される。これは米国の4分の1程度。2050年には中国の一人当たりGDPは5万ドルになり、「中の上クラス」入りをするが、なお米国の6割弱の水準だ。

この国としての経済規模の大きさと一人当たりGDPの相対的な低さという捻じれは中国の政治的課題に大きな影響を与え続けるだろう。

また中国の規模や地域間の格差を考えると中国では「一つの国家に複数の政治システム」が存在するというような「国民国家」概念では考えられないことが持続することも想像される。

「中国が普遍的価値を追求することを国際社会が望んでいる」と関氏は結んでいるが、それが長期的に見て国際社会のBest interestであるかどうかは別問題であると私は考えている。

コメント (1)
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