佐藤直曉の「リーダーの人間行動学」 blog

リーダー育成のための人間行動と人間心理の解説、組織行動に関するトピック

リーダー感覚52――7世紀:朝鮮半島情勢から聖徳太子の怨霊まで

2007-03-21 12:02:37 | 雑記帳
ここのところ、頭がいまいちパッとしません。風邪をひいてから、どうもいけません。それにいろんなところに書きすぎているのか、内容が薄いように思います。選択と集中を考えなければいけないようです。さて、今日は休日なので、いつもと趣向を変えて、趣味の話でも。


◆7世紀にはまっている
 実は、ここしばらく、7世紀の日本史と関連する朝鮮半島の歴史にはまっております。この時代は中国が隋から唐になり、中国全土を統一し、朝鮮半島に攻め込んだわけです。
 
 このとき、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が鼎立し、互いに争っていました。そもそも新羅は遅くできた国ですが、新興国で百済を脅かすまでに成長しました。百済はそれを恐れて日本(倭)に援軍を要請したり、貢物をたずさえた使者を送ってきています。仏教とか、いろいろな技術は、実はそういうお土産だったということです。

 
 もちろん、新羅も、ときに倭に使者や貢物をもってやってきています。また、北方で遠くの高句麗さえも、隋が攻め込みそうになると、倭に使者を送って援軍を要請しようとしたりしています。
 
 5世紀のころから、日本は朝鮮半島三国や中国にとって、重要な外交的パートナーとみられていたわけです。もっとも、日本のほうでは、そのあたりの事情がよく飲み込めずに、外交音痴まるだしの対応をしていたようです。
 
 なぜ、私が7世紀の日本、特に大化の改新とか壬申の乱に興味を持ったかですが、やはり現下の北朝鮮との諸問題、特に拉致問題に関心をもっているからでしょう。無意識のうちに、そういうトピックを選んでいるのだと思います。
 
 そうやって、いくつか本を読んでいくうちに、聖徳太子のことが気になりだしました。日本書紀を読むと、日本書記が書かれる100年くらい前の人物にもかかわらず、あまりにも神話的に書かれている。


◆聖徳太子の謎にもはまってしまった
 聖徳太子は諡号ですから、本名は厩戸皇子(うまやどのみこ)といいます。聖徳太子は、仏教を広め、日本の政治制度の基礎を築いた人と敬われています。
 
 しかし、大山誠一さんによると、聖徳太子に関して事実として確認できるのは、厩戸王という一人の王族の存在と、彼が斑鳩宮に住み、氏寺の法隆寺を建立したということぐらいなのだそうです。
 
 ですから、ほとんどは書記が書かれた720年以降の創作だそうです。たしかに、そうだろうなと私も大山さんの本を読んで思いました。
 
 なぜそういう話が書記に挿入されたかといえば、長屋王の変(729)が原因だそうです。長屋王(684?~729)は天武天皇の孫ですが、藤原氏との皇位争いに破れ、謀反の疑いで自殺を命じられたわけです。長屋王の妻の吉備内親王や子供たちも自経しました。 
 事件直後に、藤原不比等の娘が聖武天皇の皇后(光明皇后)となったわけです。この事件をあやつっていたのは、光明子の兄弟、藤原武知麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の藤原四兄弟でした。
 
 ところが、そのあと変事が起きます。天平四年(732)から九年にかけて、旱魃、不作、飢餓、地震が起こり、外交関係が悪化し、疫病が大流行しました。さらにわずか四ヶ月の間に、藤原四兄弟が天然痘にかかって次々に死んだのです。
 
 これが長屋王の怨霊の祟りということと理解されたわけです。聖徳太子信仰と、この事件が関係したことは間違いないようです。
 
 ただ、ここから先はいろいろな解釈があって、大山さんの意見に私は必ずしも納得できないところがあります。
 
 事件を素直に受け止めれば、聖徳太子は長屋王に擬されたと考えられます。長屋王の一族は全滅したわけですから、聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)も非業の死をとげていなければならない。そういうフィットした実例を厩戸一族にみつけたか、あるいは創作したとも考えられます。
 
 それから、梅原猛さんが取り上げた有名な説があります。法隆寺の謎です。そのなかでも、非常にわかりやすいのが、救世観音の頭の釘です。
 
 救世観音(写真右)は後頭部に釘が打ち込まれて、それによって光背を首かせのように背負わされています。通常は左の写真のように、光背は別につくられます。
釘はやはり異常としか考えられないでしょう。

 
 
 時の権力者が、長屋王が祟ったんだとはけして言えない。それは自分たちの悪行を認めることになるからです。それで、聖徳太子をもちだして、聖徳太子象に釘を打ち込んで、怨霊を封じ込めようとした。そう考えるのがいちばん素直ではないのかと思います。
 
 そのあと、聖徳太子を仏教界のスーパースターにしようとする人間が仏教界にいたのだと思います。そして、聖徳太子の伝記『伝暦』をつくりあげた。

 ところが、おもしろいことに、その伝記にはキリスト教的な内容が入っていると、梅原先生は言う。そもそもウマヤドノオウジなんというのがそうですし、片岡の飢者のエピソードは、イエスの復活と似ているというわけです。当時、ネストリウス派の景教というキリスト教が中国で布教していたという事実があるわけです。馬原田先生は、景教経典にある復活の思想を取り入れた可能性があるというのです。
 
 梅原先生も次のように書いておられます。

「太子崇拝の中に、景教が、すなわちキリスト教が入ってきているとすれば、いったい、日本の仏教の父といわれる聖徳太子はどうなるのか。その当初においてキリスト教の影響があるとすれば、我々が、長い間、崇拝してきた仏教なるものは、どうなるのか」(『梅原猛著作集9 塔』より)

 聖徳太子には秦河勝という腹心がいたのですが、この人物は応神天皇のころ渡来した子孫であり、キリスト教を信仰していたという伝承があります。

 秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。また、現在楽家として知られる東儀家は河勝の子孫であるという。
 
 うーん、益々謎だらけ、日本の歴史はどうにも混沌ですね、私の頭の中はパンクしそうだ。
 
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