昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

存在論的『神論』と礼拝観

2014-12-13 03:44:49 | 宗教

オカブはクリスチャンである。かーたんもだ。
しかしこの一年は激動の年であった。まずオカブは去年の12月から教会へ行かなくなった。当初のきっかけは教会政治のごたごたに巻き込まれて嫌気がさしたのもあるが、これまでの過去と今の自分の信仰に想いをいたしてみて、結局、「教会」というところが自分の「信仰」とはなにも関係のないことに気付いたからである。
これには「信仰」の哲学的本質論による考察が必要だ。
「信仰」とは外的であれ内的であれ、何らかの行為だ。そして教会一般によると、それは「神に栄光を帰す」行為であるという。
しかし、その行為の実態は、教会の礼拝に出席し、牧師の説教を聴き、賛美し、聖餐に与り、献金をなすということである。
このことに対してオカブは疑問を感じる。これらはすべて「外的」な行為である。
弁証法的に語れば、「教会における」「信仰」とは「外化」された「疎外」そのものである。「疎外」という言葉に否定的な意味は込めていないが、外化された信仰は、「自己」に対し対自的な存在である。 本来、絶対的な「存在」である「神」との「和解」と「神に栄光を帰す」行為であるはずの信仰が「自己」と対自し、自己に歯をむいて襲い掛かってくることもあるとい現実に慄然としなければならない。もちろん「教会」の信徒に対する「自己否定的」立場は理解できる。彼らはよく「自我が砕かれる」という表現をする。しかし、キリスト教、特にプロテスタントの信仰は「神」と「自己」との極限的なせめぎあいにその本質がある。
アランは「炭焼きの信仰以外はすべて異端である」と言った。「炭焼きの信仰」とは「我は教会の信ずるところを信ずる」という信仰である。神への従順、教会への従順が「教会」の説くところの信徒の基本的態度である。
だから、一見、アブラハムの試練と信仰的態度は信徒の模範とされている。アブラハムは全面的に神に従ったと・・・しかし彼の内面には実存的な自己の葛藤と主張が渦巻いていた。すなわち、神に従う=自己、という強烈な主張がなされていたのである。それ故、イサクの命を免ぜられたアブラハムは「主の山に備えあり」と己の喜びを表わしているのである。
教会の礼拝に出席し、牧師の説教を聴き、賛美し、聖餐に与り、献金をなす、という信仰は自己を疎外する、対象を現象界に構成する社会的行為であり、一方で外化された信仰は自己を疎外する。
それは、つまりは「神」を現象界に構成し、疎外するという行為に他ならない。これは、「神」を「存在一般」に還元し、サルトル的な無神論に力を与えるようなものである。神が現象界に存在するとしたらそれを「存在一般」といかに峻別できよう。そして、「神」に対して「どうでもいい」という態度をどうして否定できよう。「神」がペーパーナイフと同位であれば当然「どうでもいい」ということになる。古今東西の教会の行為は「無神論」を醸成してきたといっても過言ではない。そして、これは究極的な「偶像礼拝」である。
神は特殊な存在である。それは現象界に存在しない絶対的な存在である。なぜなら、そうでなければいかに神を特殊化できよう?神とペーパーナイフを見分けることが出来よう。
オカブはこの世的には弁証法論者だし、この世の基本原理は弁証法だと考える。
しかし、本来的信仰とは、弁証法とベクトルが逆の行為、すなわち「神」という絶対的外在を自己に「内化」し、神と一体になることである。であるから、信仰行為は弁証法を否定する。もちろん、そうした信仰的態度には「神秘主義」とか「反知性主義」とか「主観主義」とかの誹りは免れ得まい。しかし、 そこに信仰の本質と真実がある以上、外縁的な批判にさらされてもなお、キリスト教会にとっては異端ともいえる信仰を貫徹する覚悟でいる。
キリスト教会が礼拝によって外的な現象界に働きかけ、神を外化させるのとは逆に、オカブは神を自己に「内化」させる信仰を選ぶのである。
ここで付言するが、「自己」とは微分的存在であり、最終的には「無」に帰結する。我々が「自己」と考えているものすべては外在であり弁証法の説く様態と一致する。しかし、「本来的な信仰」は弁証法を止揚するのである。現象界の様態としてはあり得ない神と自己との一致をもたらす。それはさらにあらゆる存在論において特殊な様態でありそれらを超越する。ここのおいて神は「無」に存在を与え「無」と和解する。
通俗的に言って、教会の成してきたこと、伝道や社会的行為や文化的行為をオカブは否定しない。キリスト教音楽も美術も建築もそして聖書も教会なしにはあり得なかった。そして、一般のクリスチャンが教会の環境で「信仰」を育むのは良いことだと思っている。オカブもそのような環境で育ってきた。さらには、教会がなければオカブにキリスト教信仰は伝わらなかったというのは厳然たる事実だ。一方で、教会は一種のコミュニティーであり、サロンであり、宗教法人が多いとはいえ実質的にこの世的な組織化された営利団体ともいえる。それらの教会が果たした役割には肯定的な評価があるべきと考える一方で、一部の牧会者が唱える神から授権した教会絶対論のようなものにはオカブは強く反対する。「礼拝」への出席が信仰の絶対条件であるという考え方をオカブは捨てたのである。否、礼拝とは、「神」を外化し、「神」との対立を招き、「神」を否定する行為であると悟ったのである。礼拝というものによって信仰者の「自己」から疎外された「存在一般」である神を礼拝することは大木や岩をご神体にそれらを拝む日本の土俗宗教と何ら変わりはない。
「礼拝」は外的行為である。聖餐も洗礼も、行為一般である。そこに神の内化、神との一致の糸口は見えてこない。「礼拝」が形式化、因習化すればそれはもはやカリカチュアである。
この一年間、オカブは、静寂主義、敬虔主義、クウェーカーなどの既存の流れの中で漂い、真の己の信仰を求めてもがいてきた。 しかし、ここにきてやっと、自分一人で黙想し、祈り、いずれかの慈善団体などに献金することで、己の信仰の落ち着きを見出した。それは、外在としての現象界に働きかけるのではなく、すべて「神」を「内化」する行為であり「神」との一致を求める行為である。これからも祈り、聖霊との交わりの中で神と自己との一致を目指す信仰を貫きたい。末筆になったが皆様、佳いクリスマスをお迎えください。

いずこよりきたるか我は待降節   素閑


 



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