昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

ユトリロ展・オルセー美術館展2010「ポスト印象派」

2010-07-03 18:49:29 | アート・文化

標題のとおり美術展の梯子をしてきた。

『モーリス・ユトリロ展』は損保ジャパン東郷青児美術館で開催されている。朝、一仕事片付けて、早めに下北沢から小田急線で新宿へ。よいしょっとという具合で損保ジャパンビルの42階の東郷青児美術館へ高層エレベーターで昇る。ユトリロ(1883~1955)はご存知のとおり20世紀初頭から中頃にかけて、主にパリ周辺で活躍したフランスの画家。そのアルコール依存症とあいまった奇矯な人格と奇妙な私生活、それを取り囲む家族を含めて同じく奇妙な人物たちに彩られた生涯は、執拗にパリの街を主に絵葉書に基づいて描いた作品とともに知られている。文字通り檻の中に閉ざされた魂の訴える光は垣間見れるものの、画家としては二流の存在であろう。しかし、彼の影響を受けた否を問わず、ユトリロの亜流は多く、特に日本では佐伯祐三、荻州高徳らが、似たようなモティーフと様式でパリの街を描いている。今回、出展された作品には、彼の重要な作品は含まれておらず、無名の作品が並んでいると言う印象だった。しかし、いわゆる『白の時代』の作品群をじかに見ることができたのは収穫だった。ただ『可愛い聖体拝領者・あるいはドゥイユの教会』のような名品を見ることができないのは、無理な要求とわかっていても残念なことだ。もっとも目に留まったのは『メトロポール・ホテル』。広い画面に展開される伸びやかな建物が、ユトリロの幽閉された陰鬱な魂と解放を求める外界への憧憬が映し出されているようで逆に悲劇性を増している。他に、モネの『ルーアン本寺』のように執拗にラパン・アジル、あるいはムーラン・ド・ラ・ギャレットを描いた作品の数々があるがもとより重要な範疇に入るものではない。たしかに天与の一筋の輝きを持ってはいるものの、ベルナール・ビュッフェのように表面的な様式にとらわれた、多作で通俗的な画家という印象はぬぐい切れなかった。

さて、ユトリロ展を見て、新宿を大江戸線で後にして、六本木の国立新美術館に向かう。ここで開催されている『オルセー美術館展2010年』を鑑賞しに行くためである。土曜日で損保ジャパンと同じく大層混んでいた。オルセー美術館と銘打ってあるが、美術展のタイトルの「ポスト印象派」とあるようにオルセーの真骨頂である印象派の作品で来日したものはわずかだ。今回出展された印象派の作品で重要なものはモネの『パラソルをさす女』と『ロンドン国会議事堂・霧の中に差す陽光』ぐらいだろう。印象派の力点がなくなったため、それを埋めるべくさまざまなジャンルの作品をテーマごとに分けて展示していたが、なにか雑然とした感じがするのは否めない。ちなみに展示のテーマを追っていくと、「第1章:1886-最後の印象派」、としてモネ、ドガ、シスレー、ピサロなど合わせてわずか11点。そして「第2章:スーラと新印象主義」に飛ぶ。このなかでスーラの『ポーズする女、正面』が今回の展示の中でもっとも重要な作品ではなかったか?「第3章:セザンヌとセザンヌ主義」では顧みるべき作品はない。「第4章:トゥールーズ・ロートレック」も無名の作品が3点、出展されただけで、なぜロートレックのテーマを設けたのか企画者の意図が図りえない。「第5章:ゴッホとゴーギャン」は、やや力が入っていて、ゴッホの『アルルのゴッホの寝室』、ゴーギャンの『深淵にて』、『《黄色いキリスト》のある自画像』、『タヒチの女たち』などの名品が並ぶ。しかし、美術の坩堝のような本場のオルセーでならまだしも、ここであえてゴッホとゴーギャンを採り上げるのはやや唐突な感じがする。「第6章:ポン・タヴェン派」はゴーギャンとこの後に続くナビ派との絡みで啓蒙的に設けられたテーマで重要度は低い。さて、「第7章:ナビ派」は、企画者がこの展覧会でもっとも強調したかったテーマではなかったかと推測する。モーリス・ドニとピエール・ボナールを中心とするこの精神性に富んだ、象徴主義と分かちがたい一派を16点も採り上げるのは企画者の本展覧会の中でのナビ派の位置づけに込める思い入れを感じさせる。しかし、重要な作品はドニの『ミューズたち』くらいで、作品の質と言う点からすると中途半端な印象だ。さらに、このあとの章もそうだが、象徴主義の精神的背景に根ざす本質に深く切り込んでいないのが残念だ。しかし、いずれにしても焦点の当たる機会の少ないナビ派にこれだけ力点を置いたのはそれなりに意味があろう。「第8章:内面への眼差し」では、ルドン、モローらのサンボリストの中核を取り上げる試みが行われたが、作品的には16点の出展のうち、ルドンが2点、モローが1点と肩透かしを食わされた格好だ。シャバンヌの『貧しき漁師』が唯一光彩を放っているのみだった。ほかにクノップフのいかにも大人しい作品があったが、象徴主義を敷衍するには何の意味も持たない。しかも前章でのべたように象徴主義の精神性にあまりにも言及していない。「第9章:アンリ・ルソー」はいかにもとってつけたような格好だ。「第10章:装飾の勝利」と題して、この展覧会が締めくくられるが、ボナールらの装飾画を展示するだけでいかにも尻切れトンボだ。ここでアール・ヌーヴォーに与えた影響、特にミュシャやギャレについても言及してほしかった。全体的な感想としては、オルセーという巨大にして偉大な美術のカオスから、展示品を抜き出して展覧会を開いても、偉大なるカオスには到底及ばず、ただ雑然とした印象を与えただけと言うことだ。まあ、予算と言う最大の壁があるのであろう。単なる巡回展よりも、特定の作家やエコールに焦点を当てるなどテーマを絞った展覧会のほうが、纏まりという面では受け容れやすいだろう。今回も、完全に印象派以降の流れの中の一つに焦点を当てたほうがよかった。そもそも、そういうものだと分かってはいたが、今年最大の美術展の目玉として注目していただけに残念だ。

 

美術館に着いた時点で、昼をはるかに回っていたのでレストランで食事をした。『ブラッセリー・ポール・ボキューズ・ミュゼー』というレストランで、「これは大きく出たな。名前だけで法外な金をふんだくろうという魂胆だな」と警戒したが、2860円のランチコースは、食材こそ珍味は出なかったものの、それなりに美味しかった。ポール・ボキューズの名に偽りなし。ただ延々と空き席を並んで待ったのが堪えた。

乃木坂に出て、千代田線、小田急線、下北沢と言う具合に帰宅した。

   名画展出でて茶房のビールかな     素閑


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