今朝も5時からの歩きになった。今日は曇り空で歩き良い朝であった。 毎朝歩いて、何か無いかなと思いながら。でも新しい道の歩きは中々探せない。だから今朝も同じようなもので白鳥親子、大井池から田村池に移動するところで間の土手の上で。
この白鳥家族はいつも一緒なんだなぁ~
今日は奇兵隊が出来た日である。奇兵隊は、文久3(1863)6月6日の事。高杉晋作によって創設された長州藩最初の民兵隊で戦闘部隊である。今からちょうど150年前の事である。身分に関係なく庶民からなる混成部隊で、「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語とする。
この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾 吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると思われる。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と称される。京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。翌元治元年、新選組が長州藩の攘夷激派を襲撃した池田屋事件の後に長州藩は京都の軍事的奪回を図り、禁裏を侵して会津藩・桑名藩などの幕府側と衝突した。長州藩の不穏な動きを警戒していた薩摩藩が援軍として加わると形勢が変わり、長州勢は総崩れとなり敗北した。この禁門の変で長州藩は朝敵となったのである。幕府は朝敵・長州藩打倒のため、第一次長州征伐を行う。この戦争では奇兵隊も軍事力として戦った。 長州藩が第一次長州征伐に敗北した後に、亡命していた高杉晋作が帰藩。高杉はクーデターにより藩政の主導権を握り藩の保守勢力を一掃すると、長州藩は倒幕の方向に定まる。翌元治2年には幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争)が行われ、奇兵隊ほか諸隊も戦った。その後、奇兵隊は新政府軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町人が混合された構成であったが、袖印による階級区別はされていた。高杉は泰平の世で堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていた。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、ミニエー銃や当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱い、戦果を上げた。奇兵隊は、明治維新以降、鎮台の設立に伴って解散となった。
って事で、今日も今からお出かけします。じゃ~またネ
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