故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

藤川三渓の碑

2013年03月18日 17時07分38秒 | 幕末史

今朝も5時には目が覚めた。準備して歩きに出たのが5時20分だった。寒くはないが風が強い、池の土手を歩いていても吹き飛ばされそうになる。路上でも看板や植木鉢までもが転がっている。今日は丸亀城を横目に見ながら西へ西へと夢タウンを過ぎて金倉町をぐるりと回り先代池に出た。西側の土手には菜の花が満開。どうしたものか最近の私? 以前は花を見ても何ともなかったのに近頃はこういう花を見ると気持ちが安らぐというか、美しいとか、もっと眺めて居たいとか。   女性も同じだけど(笑)

 

土手にあがって新野球場の建設現場をみた。だいぶ進んでいるなぁ~と。

 

その後、陸上競技場あたりを廻って帰ると、7時半だった。何と2時間以上歩いていた。

10時を過ぎると雨がポツポツ降り出した。だからお出かけは止めてお家で資料の整理を。で、こんなものも、藤川三渓の碑が。

この碑はなかなか理解しにくいが、名前が分る者でも、中山城山・高島秋帆・松平頼該・松平頼胤・中山忠敬・三条実美・平野国臣・高杉晋作らの名前が見える。三渓の人脈が・・・。

 

三渓の業績。

 

藤川三渓は讃岐の国山田郡三谷村(高松市三谷町)生まれ、名を忠猷(タダミチ)成人して伯孝(ノリタカ)医師名は求馬、三渓は号である。中山城山に学び、また長崎で高島秋帆に西洋の砲術を習った。その後勤王の志士として国事に奔走、農民兵「竜虎隊」を組織し、活躍したが、藩から咎められ6年もの牢獄での生活があったが維新を迎えて出獄した。出獄した後、奥羽征討軍監察使として功を立てた。明治14年に公務を退職し、東京と大阪に水産学校を創設した。

 今日の雨は夕方の5時には上がっていた。暖かいね~、もう春ですね。って事で今日はこの辺で、じゃ~またネ


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