
【豊岡市日高町山本(やまもと)】

昨日29日は、第181回臨時国会が召集され、野田首相の所信表明演説がありました。
今日の新聞一面ぶち抜き、ぎっしり書かれた演説読んで、「相変わらずだな~、何とも言えない、気持ちを吐露する、情緒的な文言ばかりが延々続くな~」と感じます。
それはちょうど一年前の、昨年10月28日の、第179回臨時国会の所信表明演説でも感じましたね。
新聞の見出しも「日本再生へ “希望の種” まく・・・・」と書いて、演説内容のキーワードは「希望の種」であり、「希望づくり」であり、「希望」「希望」と、「希望」の言葉の羅列でありました。
野田首相はどうもいけませんな~、政経塾出身だからでしょうか、駅前演説の名手だからでしょうか、話す言葉や文章は、なかなか文学的で旨いものですが、同じ言葉が出過ぎです。
昨日の演説内容を、「はじめに」から「終わりに」まで一句一字洩らさず熟読しても、やっぱり旨いです文学的過ぎますね。
第一章の「はじめに」の原稿のっけから、「今日よりあしたは必ず良くなる」・・・・、「あしたの安心」を生み出したい、
「明日への責任」を果たしたい。「決断する政治」は、今を生きる私たちに「あしたの安心」をもたらし、未来を生きる者たちに向けた「明日への責任」を果たすために存在しなければなりませんと、「あしたの」と「明日への」の言葉が、どんどん出ますね物凄いです。
第二章からも、一節一節始めるたびに、
「明日への責任を果たす」。それは、将来不安の連鎖を招く、デフレ経済と過度な円高から抜け出すことです。・・・・・。
「明日への責任を果たす」。それは、大震災のもたらした、試練を乗り越えるための支援を・・・・・・・。
「明日への責任を果たす」。それは、私たちが日々の生活を送る上で感じている、将来の不安を少しでも取り除いて・・・・・・。
「明日への責任を果たす」。それは、国家としての矜持(きょうじ)を保ち、アジア太平洋地域の平和と安定に・・・・・・。
「明日への責任を果たす」。それは、政治と行政への信頼を取り戻すことです。・・・・・・・。と、延々、延々、「明日への責任」と云うフレーズが続きます。
第三章の「終わりに」では、
「中庸を旨として」とか、「10代先の、まだ見ぬ未来を生きる世代のために、私たちは何を残していけるでしょうか」とか、「この演説をお茶の間や職場でお聞きいただいている、主権者たる一人一人の皆さん、・・・・」とか、もうなんちゅう事でしょうか、情緒に訴える言葉がドンドコドンドコ続きます。
今年1月24日の、第180回通常国会での施政方針演説では、たしか「私たち政治家が本気で合意を目指し、動かそうとするならば、政治は前に進んでいくのです。今、求められているのは、僅かな違いを喧伝(けんでん)するのではなく、国民の真の利益とこの国の未来を慮(おもんぱか)る《大きな政治》です。日本が直面する課題を真正面から議論し、議論を通じて具体的な処方箋を作り上げ、実行に移していこうではありませんか。すべての国民を代表する国会議員として、今こそ《政局》ではなく、《大局》を見据えようではありませんか。」とか、
「政治を変えましょう。苦難を乗り越えようとする国民に力を与え、この国の未来を切り拓くために、今こそ《大きな政治》を、《決断する政治》を、ともになし遂げようではありませんか。日本の将来は、私たち政治家の良心にかかっているのです。」と、
「決断」、「決断」、「決める政治を」と言ってましたね。
何のことはないです。無理やり無茶苦茶3党合意、増税についてのみ「決める政治」をしちゃって、あとは「そのうち、そのうち」で何にも決まらん、国民に信を問うことすら決断できずにきれい事、「明日への責任を果たす」なんてフレーズ並べた演説ですね。
国会始まったその当日から、ポロポロ離党者現われドロ舟ですね。野田首相も、本当に可哀想にになってきました残念ですね。
親鸞聖人の言葉にありましょうが、「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら)、夜半に嵐の吹かぬものかわ」と、
ああ、あ、きれいな情緒あふれる演説している間に、夜半過ぎれば、回りに人が居なくなったと言う事に、なりませぬように思うばかりですね。
《あしたより 信を問いましょ それからに》