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池上区の日帰りバス旅行

2014年06月29日 | ふるさとの話

池上区の日帰りバス旅行、大型バス2台で行きました。

玄武洞公園に寄ります。写真は青龍洞前です。

コウノトリ郷公園で特別天然記念物のコウノトリを見ます。
この後城崎温泉でバイキング料理の昼食です。

餘部橋梁の空の駅に上がって日本一の高さを感じます。

三姉妹船長の遊覧船で香住の海岸線を見て回ります。

山陰海岸ジオパークの雄大な岩壁、洞くつを海の上から眺めます。

海産物店で、おみやげ「なんぼでも ええわ」の掛け声でうっかりドッサリ買いました。


《近過ぎる 地元のもんが 地元行く》

温泉街をカランコロン、城崎温泉ってやっぱり凄いわ

2014年06月21日 | ふるさとの話
(浴衣姿で下駄をカランコロンと音たてて、城崎温泉の土曜のにぎわい凄いです)

(七つの外湯の一番人気、「御所の湯」の入り口は人人人であふれています)


物凄いにぎわいです。
城崎温泉に泊まって、兄弟会をしました。

家内の兄弟です。
地元の私しんち夫婦と豊岡の家内の妹夫婦、大阪の姉夫婦に関東からは家内の弟が参加です。

食事の後です。
浴衣姿で下駄をカランコロンと音たてて、城崎温泉街を歩きます。

小雨です。
そんな天気の中でしたが、温泉街の人出ったら物凄いものです。とっても賑やか多いですね。

城崎温泉には、納品やら修理やらでもう何回も走っています。
土産物店が並ぶ温泉街はもう何べんも走って、賑やかなことは分かっています。

それでも今夜です。
「御所の湯」前で、『男連中はアルコール入っていて風呂はやめとくわ。女性たちはどうぞゆっくり』と、ベンチに座って休みます。
御所の湯は、七つの外湯の中でも一番人気です。

城崎温泉駅から続く通りには、旅館、土産物屋、食べ物屋さん、ゲーム場、それに七つの外湯の建物が並びます。
城崎温泉の温泉街の通りは、大谿川の柳の風情と相まって、そぞろ歩きの温泉街としては最高の規模と形をしています。

駅のすぐ隣が「さとの湯」です。
駅から真っ直ぐ「地蔵湯」までの広い通りも、両側は素晴らしい温泉街の風景続き、
そこから、左に折れて柳の緑も風にゆられてさわさわと、
王橋を渡って、「一の湯」と「柳湯」とがあります。温泉街の中心ですね。

一の湯から「御所の湯」前を過ぎて、ずっと奥の「まんだら湯」や「鴻の湯」までものずっと長い道中は、木造三階建の温泉旅館や土産物の軒(のき)が続きます。

御所の湯のベンチに座って小雨の通りを眺めていました。
一番日の長い夏至の今日だからでしょうか、夜の過ぎるのも忘れたかのように、夜九時を過ぎても人波は途切れません。
とにかくすごい人の数です。

私地元の者でも思います。
『こんなに温泉街として賑やかな情緒あるところは、日本中でもここだけだろうね』と、
何年前だったでしょうか?、日経新聞に出ていました「何でもランキング」の記事に、「そぞろ歩きが楽しい温泉街」の堂々ダントツ一位が城崎温泉でした。

ダントツ一位が城崎温泉、続いて渋温泉(長野県)、草津温泉(群馬県)、道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(神戸市)、別府温泉(大分県)、銀山温泉、伊香保温泉、野沢温泉、山代温泉がそぞろ歩きが楽しい温泉街だって。

でも感じます。
この10ヵ所全部は行ってみてませんが、城崎温泉のような温泉街のにぎやか楽しさや、通りの長さのものはお目にかかった事はありません。
まず断言してもいいでしょう。
城崎温泉の温泉街のような情緒あふれるところって、日本中で城崎温泉ただ一つと思います。



《時々は 城崎温泉 泊まります》

但東町の真裏はブラジルですね

2014年06月20日 | ふるさとの話
(但東支所に展示されてました。カラフルなデザインマンホール蓋の見本です)


日本の標準子午線は東経135度と決まっています。
兵庫県の明石を中心に、子午線はほぼ兵庫県を縦に突き抜けています。

豊岡市但東町は子午線の通過する町です。
下水のマンホールのデザインも、日本地図を描いてE135°(東経135度)、N35°30′(北緯35度30分)と子午線の町を表しています。
そして花は “つつじ” です。

道路のマンホールには色は付けてありません。
但東支所の入り口に、カラフルなデザインマンホール蓋の見本です。

日本の地図を広げますと、東の端は東京都の南鳥島で東経154°、もう少しで日付変更線に近いです。
西の端は沖縄県の与那国島で、東経123°と広いです。

その差は経度で31°もあります。
経度15°が太陽の1時間ですから、31°はちょうど2時間の幅がある事になります。
明石や但東町の東経135°は、東西に幅の広い日本のちょうど真ん中に設定されています。

今日、朝7時から開始のワールドカップ・ブラジル大会、日本とギリシャの試合は惜しかったですね。
日本チームが圧倒的にボールをキープしパスしていたのに、そして惜しいゴールネットのそばをかすめるボール、しかし引き分けの残念な結果に終わりました。
残るは25日のコロンビア戦、ぜひとも勝たねば決勝リーグに進出は叶いませんね。

ブラジルって日本の裏側って教わりました。
生中継も、日本が朝の7時でしたがブラジル現地のナタルでは午後7時だと伝えます。
東経135度のちょうど裏側と云いますと、180度-135度=45度で、西経45度が東経135度のちょうど真裏になりますね。

ブラジルもムチャクチャ広い国です。国内だけでも時差が3時間以上もあります広いです。
サンパウロがちょうど西経45度の位置です。ブラジルの標準子午線はサンパウロです。

ギリシャと試合のあったナタルは、もう少し東に寄った西経35度の地点ですが、標準時に合わせて日本との時差はちょうど12時間という訳でした。

次の25日のコロンビアとの試合は、現地が午後の5時です。
日本ではちょっと早朝夜明け前かな、午前の5時となりますね。

豊岡市但東町は日本の標準時であります。子午線が通過してます町です。
ワールドカップのブラジルと、ちょうど真裏の町ですね。



《ガンバって~ サムライブルー 最後まで》  

豊岡はとても「めでたい」地名ばかりです

2014年06月19日 | ふるさとの話
(豊岡市役所・但東支所を訪ねます。支所の目の前は「出合(であい)の交差点」と申します)


豊岡市役所・但東総合支所に納品に出かけます。

真夏のような太陽がギラギラ眩しい天気です。
昨日までの梅雨空は今日はお休みです。

朝一番から、快晴のギラギラ厳しい日差しは、二階の屋根の上のエアコン工事は暑さで堪(たま)りません。
走る車の運転席も、ガラス越しの日差しが痛いほどに暑くて暑くて適(かな)いませんね。

但東総合支所を訪ねます。
豊岡市はとっても広いです。当店から走って走って、田舎の道を走ります。

信号もそれほど多くありませんし、走る車も少なく渋滞なんぞはありません。
ビュンビュン飛ばして走ります。
それでも遠いですね、但東町のほぼ真ん中あたりの支所までが、30分は優にかかりましたね遠いですね。

『ありがとうございました』と、深々お辞儀しまして品物納め、まだ陽射しのきつい西日に向かって、出石から日高への道を帰ります。

但東総合支所の真ん前は大きな交差点です。
「出合(であい)の交差点」と申します。

「出合」、「であい」って、なにかとってもいい響き、
辞書を引いてみますと、「人と人がであうこと」、「男女があうこと」なんて書いてありますめでたいですね。

ふるさと但馬の我が町は、豊岡の町です我が町は、とっても「めでたい」地名がいっぱいあるのです。

この交差点のある但東町の中心部は、「出合(であい)」と云います。
豊岡市但東町出合(であい)は、人と人とが縁あり出会うめでたい名前です。

城崎町には、人と人が出合った後にめでたく結ばれる、「結(むすぶ)」って地名がありますね。
豊岡市城崎町結(むすぶ)は、男女が縁あって結ばれる、とってもめでたい名前です。

豊岡市の中心部にまいりますと、めでたい折に中心に必ず記す、「寿(ことぶき)」の文字です。
豊岡市寿町(ことぶきちょう)がありますズバリです。

夫婦めでたく結婚しまして幸せな家庭を築く、「幸(さいわい)」の文字です。
豊岡市幸町(さいわいちょう)があります。心から嬉しくなるよな名前です。

子供が生まれて家庭が栄えます。「栄(さかえ)」って地名もちゃんとありますホントです。
豊岡市栄町(さかえまち)と云いますよろしくね。

最後にもう一つ、
夫婦が仲良く子供も生まれ、家庭が栄えてその先は、国の繁栄彌榮(いやさか)ですね。

彌榮って、難しい字ですが「いよいよ、さらに栄えること」って辞書に出てます。とってもめでたい言葉です。
ちょっと字が難しいのでやさしい文字にしますと、彌榮(いやさか)は弥栄(やさか)と書きます。

豊岡市弥栄町(やさかちょう)がありますこれホントです。

やっぱりわが町豊岡は、「めでたい」地名ばかりの町ですね。



《コウノトリ めでたい地名 運びます》

改修された土居の井堰

2014年06月16日 | ふるさとの話
(円山川の土居井堰がきれいに改修できました)


昔から鮎釣りで有名な土居の井堰です。

つい最近、堰の改修が完了しました。
段々になった堰を流れ落ちる水は、とてもきれいな白いしぶきです。

ここ土居の井堰は、国府の平野に水を引く取水口です。
国府を縦断する用水路は、昔の円山川の名前からとって蓼川用水路と云います。

1870(明治3)年に築かれた円山川のこの堰は、なんと140年以上のガンバリの末やっと2年前から右岸半分、それから今年は左岸半分と全面改修です。

100年以上耐えた堰はコンクリートも凸凹に崩れ、水の流れも均一ではありませんでした。
水の流れが激しい所や少ない所があって、それはそれなりに趣きがありました。

改修された新井堰はピチッと完璧なまでに水平な段々のコンクリート、水の流れもキチッときれいに揃って流れ落ちます。
昔のデコボコの流れと違って、水平幾何学模様の水の飛沫(しぶき)もまた良いものです。

昔から、日高の素晴らしい景色と謳われた土居の井堰から眺める風景も、新しくまた素晴らしいものになりました。



《蓼川の 若鮎はねる 土居井堰》

田舎の電気屋、二つも三つも峠を越えて

2014年06月12日 | ふるさとの話
(竹野町椒《はじかみ》に行くには、「番屋峠」を越えますね)

竹野町のKさんから電話です。
「サンヨーの衣類乾燥機が動きません。ウ~ンと唸ったままで、ドラムが回転しません診てちょうだいな」と電話です。

『分かりました。すぐお伺いします』と車を飛ばして走ります。
Kさんちは竹野町の床瀬と云う地区、住所は竹野町椒(はじかみ)ってえらい難しい地名です。

当店から床瀬までは、山道駆け抜けぶんぶんと、峠を越えますまっしぐらです。
旧日高町の一番北の地は「カサノフタ峠」を越え、旧豊岡市の一番西の地「番屋峠」を抜けますね。

椒のKさんちで衣類乾燥機を診て、そのあとに思い出しましたよ電話をします。
『浜須井のHさんですか。今、竹野町の床瀬に居ますが、ついでに寄っていいですか。LED照明が具合悪いとおっしゃってました分、取替に伺いますが』と話します。

田舎の電気屋ぶんぶんと、峠を越えます走ります。その距離ったら凄いです。
当店から椒のKさんちまでがおよそ15㎞かな、ちょっとついでに寄りますと、電話した浜須井までは椒から20kmもあります広いです。

同じ豊岡市です。
同じ豊岡市の中の竹野町です。
ついでに一軒寄る距離が、なん遠いですよ20kmなんかざらですね。

浜須井から当店までの帰り道、やはり峠を越します「江野(ごうの)」のトンネルを抜けて帰ります。

ふるさと但馬は山ばかり、どこに行くにも峠を越えて一つも二つも時には三つ、とにかく隣の集落、隣の町に行くときゃ必ず峠がありますね。

豊岡市には、ものすごい数の峠があります。
ここに書いた名もある峠は、だれでも知っていますねそこそこ大きい、書いてないものでもこの何倍も、小さな小さな名もない峠もありますね。


豊岡市の峠や坂やトンネル

河梨(こうなし)峠     旧豊岡市
江野(ごうの)トンネル   旧豊岡市
三原(みはら)峠      旧豊岡市
目坂(めさか)       旧豊岡市
駄坂(ださか)       旧豊岡市

金山(きんざん)峠     旧日高町
カサノフタ峠        旧日高町    
よのき坂          旧日高町         
珍坂(ちんさか)トンネル  旧日高町
蘇武(そぶ)トンネル    旧日高町
進美寺(しんみじ)トンネル 旧日高町

駒返(こまがえし)峠    旧出石町
寺坂(てらさか)      旧出石町
暮坂(くれさか)      旧出石町
鯵山(あじやま)峠     旧出石町
出但(いずたん)トンネル  旧出石町

天谷(あまだに)峠     旧但東町
岩屋(いわや)峠      旧但東町
小坂(こざこ)峠      旧但東町
滝(たき)峠        旧但東町
登尾(のぼりお)峠     旧但東町
薬王寺(やくおうじ)峠   旧但東町
加悦奥(かやおく)峠    旧但東町
尉ヶ畑(しょうがはた)峠  旧但東町
大成(たいせい)峠     旧但東町
円城寺(えんじょうじ)峠  旧但東町
たんたんトンネル      旧但東町

鋳物師戻(いもじもどし)峠 旧城崎町
飯谷(はんだに)峠     旧城崎町 

番屋(ばんや)峠      旧竹野町
土生(はぶ)峠       旧竹野町
水山(みずやま)峠     旧竹野町
太田越(ただごえ)峠    旧竹野町


ふるさと但馬の豊岡は都会と違って山ばかり、どこに行くにも峠を越えてまいります。
田舎の電気屋、今日もセッセと車を走らせぶんぶんと、走って走って二つも三つも峠を越えて行きますね



《まわり中 どこに行くにも 峠越え》

ふるさとのマンホール

2014年06月10日 | ふるさとの話

あるテレビ番組で、全国のマンホールの写真を集めていらっしゃるお方が出ておられました。

観光地の町のマンホールは、だいたい町を紹介するきれいな図柄です。
町によっては、マンホールの図柄に色を塗ったカラフルなものもありました。

ふるさと但馬のわが街・豊岡は、どんなマンホールの図柄かな、お客さまを訪ねた時にちょっと写真に撮ってみました。
さすが、カラーのカラフルなものはありません。


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豊岡市出石町八木の辰鼓楼(しんころう)前、図柄も辰鼓楼です。


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豊岡市城崎町湯島の大硲川前、図柄も大硲川に架かる橋を描いています。


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豊岡市竹野町浜須井の市道です。図柄は北前船の勇壮な絵です。

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豊岡市但東町矢根の出石川沿いの道路、東経135度の町を表しています。


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豊岡市日高町栃本の稲葉川沿い、溶岩の流れと滝を描いています。


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豊岡市日高町山田の天文ドームの前、神鍋高原のウサギを描いています。


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豊岡市日高町羽尻の阿瀬渓谷沿いです。清流の川魚を描いています。


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豊岡市城崎町飯谷の市道です。「きのさき おすい」と地味なデザインです。


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豊岡市加陽地区の市道です。旧豊岡市の市章と「おすい」ととっても地味ですね。



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豊岡市日高町池上の当店の前です。旧日高町のマークもなくって「おすい」と地味ですね。



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隣町、養父市八鹿町円山台の市道です。八鹿のマークと「おすい」とだけですね。



《ふるさとの マンホールどれも きれいです》

植村直己さんの遭難からもう30年です

2014年06月07日 | ふるさとの話
(今日、国府地区公民館で「2013年植村直己冒険賞の受賞者を囲む会」がありました)


当店の目の前が国府地区公民館です。
2013年植村直己冒険賞の授賞式を、日高文化体育館で終えた後、受賞された田中幹也(かんや)さんを迎えて「植村直己冒険賞の受賞者を囲む会」が国府地区公民館でありました。

毎年のことです。今年で18回目となります。

この冒険賞は、世界的な冒険家だった植村直己さんの偉大な業績を記念して、毎年その一年間にもっとも凄い冒険をなした人を表彰するものです。

昨年一年間の中から選ばれたのは、東京在住の田中幹也さんです。
田中幹也さんの数々の冒険は凄いですな~。
厳冬期のカナダ内陸部2万2千キロを、単独踏破されたそうです。

植村直己さんが北米最高峰のマッキンリーで消息を絶ったのも、厳冬期の2月13日のころです。
今からちょうど30年前の、昭和59年のことです。

植村直己さんが遭難してから12年後、旧日高町は植村直己冒険賞の表彰を始めます。
それから数えること、今年で18回目です。

どんな方が冒険賞に輝いているか書き出してみます。


第1回受賞者 (平成8年) 尾崎 隆さん   幻の山ミャンマー最高峰初登頂
第2回受賞者 (平成9年) 米子昭男さん  左腕なしのハンディを乗り越えヨットでの太平洋・大西洋単独横断
第3回受賞者 (平成10年) 関野吉晴さん  人類の旅5万キロをたどるグレートジャーニーの冒険
第4回受賞者 (平成11年) 大場満郎さん  史上初の北極単独横断と南極4000キロ単独横断
第5回受賞者 (平成12年) 神田道夫さん  熱気球でヒマラヤ越えに成功
第6回受賞者 (平成13年) 中山嘉太郎さん 中央アジア・シルクロード12000キロの走り旅
第7回受賞者 (平成14年) 山野井泰史夫婦 ギャチュンカン峰(7952m)登頂成功
第8回受賞者 (平成15年) 安東浩正さん  厳冬期ソベリア単独自転車横断
第9回受賞者 (平成16年) 渡邊玉枝さん  女性世界最高齢で8000m峰5座登頂
第10回受賞者(平成17年) 永瀬忠志さん  リヤカーで世界4万3千キロ徒歩踏破
第11回受賞者(平成18年) 小松由佳さん  K2に日本人女性初登頂
第12回受賞者(平成19年) 野口 健さん  エベレスト北陵登頂成功
第13回受賞者(平成20年)         該当者なし
第14回受賞者(平成21年) 中西大輔さん  自転車で地球2周15万キロ走破
第15回受賞者(平成22年) 栗秋正寿さん  中央アラスカ83日間、ナンター冬季単独登頂
第16回受賞者(平成23年) 斉藤 実さん  ヨット単独最高齢(77)最多(8回)世界一周
第17回受賞者(平成24年) 竹内洋岳さん  ダウラギリ無酸素登頂、8000m峰14座完登
第18回受賞者(平成25年) 田中幹也さん  厳冬期のカナダ内陸部2万2千キロ単独踏破

受賞される皆さんは、もうメチャクチャ凄いことをされます大冒険家、植村直己さんと同じことです。超人ですね。


《冒険家 毎年国府 集います》

「NOMOベースボールクラブ」のバスは行く

2014年06月03日 | ふるさとの話





昨日6月2日って、とっても大きな出来事があった日とこのブログで書いたことありました。

800年ほど昔に、平清盛が福原(現在の神戸)に都を移した日と書きました。
400年ほど昔に、明智光秀が本能寺の変を起こした日と書きました。

そしてまだ4年前のことです。
平成22年の6月2日は、当時の鳩山首相と小沢幹事長が二人一緒に、「辞めます」と辞意を表明した日です。

さらにさらに3年前のことです。
平成23年6月2日は、トンチンカンな内閣不信任案の否決された日でしたね。

当時の菅内閣を追い詰めた野党の自民・公明は、どちらに転んでも民主党は割れるはずだと目論んで、王手飛車の不信任案を出したものが、またもや鳩山さんの反対投票や小沢さんら17人の欠席や棄権によって、何のことはない菅総理の「もうちょっと先で辞任します」の大ウソの発言で、不信任案もグチャグチャの否決になりました。

近年の6月2日の出来事だって、少しは良いこともありました。

元プロ野球メジャーリーガーの野茂英雄投手です。

今から19年前です。
日本人として二人目、30年以上久しぶりの日本人メジャーリーガーの登場です。

平成7年6月2日に、ニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げた記念すべき日だったのです。

野茂投手はアメリカでの頑張りは長かったですね。13年間ですよ。

野茂英雄投手の現在は、ふるさと但馬は城崎ですね。
豊岡市城崎町に本拠を置いて、社会人野球クラブチーム「NOMOベースボールクラブ」のオーナーですよ。

写真のバスは、「NOMOベースボールクラブ」の選手が、練習や試合のために移動の大型バスです。
選手の皆さんは城崎温泉の旅館で働いておられます。

練習は日高町の植村直己記念スポーツ公園野球場や、県立但馬ドームその他でされているのでしょう。
写真の大型バスが、今日も昨日も走ります。
練習を終えて国府の道路の帰り道、城崎に向かって走る車に、真赤な夕日が差しますね。



《バスもです 野茂さんだって 大きいね》

今日は何の日、「気象記念日」です

2014年06月01日 | ふるさとの話
(出石の桜井勉は気象測候所の創始者で、気象予報の生みの親と云われる人物です)


名曲です。

   「童は見たり(わ~ら~べ~は みたり) 野中のバ~ラ

             清らに咲ける その色愛(め)~でう」

の歌詞は、シューベルトの「野ばら」ですね。

もう一つ、
    

    「眠~れ眠~れ 可愛(めぐ)し緑子(わくご)・・・・・」

の歌詞で始まる名曲は、「シューベルトの子守歌」です。


「わ~ら~べ~は みたり」も「眠~れ眠~れ」も、明治時代に西欧の名曲を数多く訳詩した、近藤朔風(こんどうさくふう 本名:近藤逸五郎)の名訳です。

近藤朔風は、日本近代音楽の発展に貢献した名訳詩家で、「野ばら」「シューベルトの子守歌」の他にも、「菩提樹」「ローレライ」などの、誰でも知っている名曲の訳詩を手掛けた有名なお方です。

今日の話は、この近藤朔風(こんどうさくふう)のお父さん、日本気象予報の父と云われる「桜井勉(さくらいつとむ)」の話です。
近藤朔風は桜井勉の5男として生まれ、13歳の時近藤家に養子に入り、音楽の道で大成します。
残念なことに、お父さんの88歳に比べ、早世な35歳の命でした。

ふるさと但馬の豊岡市には、出石町・昔の出石藩と云うところがあります。
観光地、但馬の小京都と云われ「そば」で有名なところです。

今日は日曜日です。

出石の町は、「そば」を目当ての観光客でいっぱいです。
用事のついでに、出石のシンボル辰鼓楼の前を通り過ぎて、出石城の方に進みます。
左手奥です。
諸杉神社の向こうに「桜井勉の生家」の看板が立っています。

今日のお話、近藤朔風のお父さんがこれまた有名な出石藩出身の「桜井勉」なのです。

桜井勉は、1868年が明治元年ですから、明治までまだ25年あると云う江戸幕末の、1843年の生まれです。
出石藩の儒官・桜井家に生まれ、幼いころからすぐ隣の藩校・弘道館に学んでいます。(ちなみに近くの小学校は弘道小学校と称します)

明治新政府の内務省地理局長の頃、全国の気象観測所の設置に尽力し、日本に気象観測網を創設した、いわば気象予報の生みの親という存在なのです。
もちろん、その後も全国の知事を歴任、内務省神社局長にも就いています。

桜井勉が手がけた気象測候所は、明治12年広島測候所(現広島地方気象台)を皮切りに全国に及び、
その後気象台は国営となり、明治17年6月1日に気象庁の前身東京気象台から、日本最初の天気予報が発表されたのです。

それは、ラジオはもちろんテレビもありませんから、東京市内の交番に掲示するという悠長なもの、その第一号は、

「全国一般風ノ向キハ定リナシ、天気ハ変リ易シ、但シ雨天勝チ」と云う、
分かったような、分からないような内容だったのです。

明治17年6月1日に、日本で初めての天気予報が発表されたことにちなんで、今日6月1日は「気象記念日」と云うのです。

今日は何の日「気象記念日」です。
ふるさと但馬のとっても偉いお人です。気象予報の父と云われる「桜井勉」の作った気象測候所と、天気予報第一号のお話でした。



《出石には 気象の父と 訳詩家と》

「楽々」って書いてどう読みますか

2014年05月30日 | ふるさとの話
(円山川の日本海河口に近い入り江です。楽々浦湾は川と云うより湖のような姿です)


城崎町飯谷のNさんちへ、エアコン修理に伺いました。

2日ほど前から一気に暑くなってまいりました。連日30℃を超す暑さです。
お客さまのエアコンも、一斉にスイッチを入れて「アレレ、動かないわな。冷えないぞ」ってな具合に、修理の依頼が舞い込みますね。
それに、エアコンのワンコインサービスや、本格的なエアコンクリーニングの依頼もありますね。

城崎町飯谷へは、城崎温泉駅のほんの手前を右折して、橋を渡って円山川の右岸です。
その先はすぐです。
飯谷へは、楽々浦地区を通過して真っ直ぐに進みます。

楽々浦地区は、円山川の流れから入り江になった楽々浦湾に面しています。
楽々浦湾は、波も静かで周囲の山を水面に映して、実にきれいな風景なところです。

楽々浦って云う地名の読み方わかりますか?
地元豊岡や城崎の者なら当然知っていますが、「楽々」って書いて、続けて湾のことですな「浦」をくっつけて「楽々浦」はこれは難しい、なかなかなものです。難読地名と云えますね。

答えを云う前に、もう一つふるさと但馬の豊岡市には、「楽々」と付くところがあるのです。

日高町佐田地区の背後の山に残る、城跡の名前です。
「楽々前城」と云います。
難しいなあ~、城崎の楽々浦の「楽々」は同じで、それに「前」が付いてるもっと難しい名前です。

楽々浦を「らくらくうら」と読んだらブ~です。楽々前城を「らくらくまえじょう」もブ~ですね。

答えを云いましょう。
「楽々浦」は「ささうら」って読みます。「楽々」は「ささ」と読むのですね、どうもムチャクチャな読み方のようです訳わかりませんね。

次に、日高町の城跡の「楽々前城」です。
これはなんと「ささのくま城」と読むのです。

「楽々」を「ささ」と読ませて、さらに「前」を「くま」って読ませるのですよ難しい。なんでこんなに読むのか、色々調べましたが私にはもう一つ分かりませんでした。

全国の地名をちょっと詳しく調べましたが、どこにも「楽々」を使って「楽々浦:ささうら」とか「楽々前城:ささのくまじょう」なんて読ませる地名はなかったですね。

ふるさと但馬の豊岡だけでしょうね、2ヵ所も「楽々」を使った難しい難しい、地元の者以外は絶対に読めない地名がありました。



《ふるさとの 難読地名 ささうら(ささのくま)》

「すくも」

2014年05月28日 | ふるさとの話
(パズルの6月号が出来ました。作りながらふるさとの方言を想います)


毎月作りますクロスワードパズルが出来ました。
四十九の枠にピタリと言葉が埋まって完成します。

完成した後は、タテ・ヨコのヒントを考える分です。
ヒントって云うものも、答えがすぐに分かるヒントじゃいかん、難し過ぎるヒントでもいかん、なかなか良いヒントを考えるのも大変ですよ。

ヒントを考える前に、基本的には意味を正確に知るために、国語の辞書を開きます。

タテのヒントの7番です。
「但馬の方言で、もみ殻のことをこう言います。」
答えは「スクモ」です。

「スクモ」って「もみ殻」のことです。子供のころから誰でも知っています。
「スクモ」は、お米の籾(もみ)の袋の皮のこと、「もみ殻」のことですね。

「スクモ」は、全国共通の標準語と今日の今日まで普通に信じてました。

辞書を開きました。
「すくね:宿祢」、「すくまる:竦まる」、「すくみあがる」、「すくむ:竦む」、「ずくめ:尽くめ」、「すくめる:竦める」、「すくよか:健よか」、「スクラップ」と、どこにも「すくも:スクモ」なんて出てきません。

おかしいな?と、別の辞書で調べても、ネットで検索しても出てきませんよ。
「スクモ」なんて言葉はないようですね。

ガ~~ン、昔から普通に使っていた「スクモ」って言葉がありません。
昔々、ずっと昔のことです。18歳のころに社会人になって寮生活します。
みんなが集まったところで、普通に「ながたん、なつべる」と云った時に、誰にも意味が通じなかったことを思い出しました。

「スクモ」も、「ながたん」も、「なつべる」もふるさと但馬の方言だったのです。

ふるさとの方言って、「ようきんさった」と云う風な挨拶言葉によく特徴が表れます。
言葉の最後尾に、「な~あ」なんて付く言葉の抑揚で、方言の癖ってなものが分かります。

ところが方言の名詞です。
物の呼び名そのものの名詞の方言となりますと、これは分からない者にとってはチンプンカンプンですね。

ふるさと但馬の方言の、その物の名前で五つ六つ、いや十(とお)程あげてみてみます。


「スクモ」・・・もみ殻

「ながたん」・・・包丁

「こうこ」・・・漬物

「おなめ」・・・雌牛

「こって」・・・雄牛

「べーこ」・・・子牛

「がんど」・・・ノコギリ

「ぐべ」・・・ノロゲンゲ(魚)

「ちこにこちん」・・・ビー玉

「とっちんば」・・・イナゴ


何十も何百もある、ふるさと但馬の懐かしい方言のほんの一部です。

方言は昔の思い出、ふるさとのあたたかい母の言葉です。



《「スクモ」って 但馬の言葉 知りました》

北但大震災

2014年05月23日 | ふるさとの話
(京都・三千院に置いてありました。京都産業大学のパンフレットに「北但大震災」の話しです)


今日5月23日は、大正14年に発生した「北但大震災」の日です。

先日、Uさんちで奥さんに『毎月お届けしてますクイズ、いつも解答持って来ていただきありがとう』と話します。
「アトムさんは色々な言葉をたくさん知ってるのね、クイズを作ろうと思ったら大変ね」、

『地名や町の出来事や、なんでも言葉を探すのです。北但とか大震災って言葉も考えましたよ今月は』なんて話の延長で、
昔、先生をされていた奥さんは「今月の23日ね、あなたが小学校に行ってる頃も、今でもやっているでしょう学校の防災訓練よ、地震が起きた23日には必ず学校で避難訓練ありましたよ。覚えてませんか」とおっしゃいますね。

今日は「北但大震災」の日です。
大正12年9月1日は関東大震災の日です。それから2年後の大正14年5月23日午前11時11分に、円山川河口を震源とする震度6の地震が発生しました。

猛烈な地震(関東大震災がマグニチュード7.9、北但大震災はマグニチュード6.8)です。
関東大震災と同じように、正午前の炊事の火がある時間帯でした。
城崎も豊岡も、家屋の崩壊も甚大でしたが瞬く間の火災に見舞われました。全焼1、700棟、死者:428名の大災害です。

先日5月2日、NHKのBS放送でしていました新日本風土記「城崎温泉」の中でも出てきましたね。城崎の温泉街が全壊・全焼した様子を映し出していました。

この北但大震災のまたまた2年後です。今度は豊岡のお隣、丹後半島で大地震です。マグニチュード7.3の北丹後地震です。
この時も当然豊岡は大揺れでした。

私の生まれた古い古い小さな家は、実は家全体が傾いていました。
北側の壁には、大きな電柱のような木で突っ張りがしてある家でした。
学校の友達から「突っ張りの家」と云われてましたね昔です。

死んだ親父が言ってましたね「北但大震災でちょっと傾き耐えてたが、次の北丹後地震でさらに傾き、突っ張りをすることになったんよ」とね、

今から89年前は、「北但大震災」でした。2年前の関東大震災に、2年後の北丹後地震に、よくもまあ地震続きのえらい怖い時代だったことですね。



《北但の 忘れたころも 訓練を》 

唱歌・故郷(ふるさと)

2014年05月18日 | ふるさとの話
(ふるさとの懐かしき川と山、円山川の流れと須留岐と進美寺の山並みです)


毎日天気がよろしいですね。
わが故郷但馬の里は、春の田植の真っ盛りです。

六方(ろっぽう)田んぼも、
高生(たこう)田んぼも、春の田植の真っ盛りです。



(悠然と空を舞い、人懐っこく田んぼに降りるコウノトリです)


六方田んぼで見かけました。

水を張った田んぼを、代掻(しろか)きの大型機械がぶんぶん走ります。
そばのコウノトリは、何食わぬ顔でエサを探して田んぼの中を動きます。

高生田んぼで見かけます。
田植え機のカシャカシャ苗を植える音に追われて、白サギが横にひょいっと飛び立ちます。

コウノトリと白サギと田植えの風景は、実にのどかな五月です。

円山川には、可憐な野草の小さな花ひとつ、五月の風が揺らします。
若葉青葉が萌えている山並みは、須留岐や進美寺の仁王立ちですね。


蓼川(たでがわ)大橋あたりから、円山川の上流域を見る景色は大好きです。
円山川の広々とした河川敷と、その先のラクダの背中のようなカーブが美しい須留岐山の姿、とても雄大な景色です。

誰も、自分が生まれたふるさとを、川や山の姿で懐かしいイメージとして持ち続けます。
その川、山の姿第一位が写真の雄大な景色です。


石川啄木の「一握の砂」と云う歌集に出てきますね。


 ふるさとの山に向ひて

      言ふことなし

  ふるさとの山はありがたきかな



唱歌・故郷(ふるさと)の歌詞に出てきますね


 兎追いし かの山 小鮒(こぶな)釣りし かの川
  夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷(ふるさと)


 いかにいます 父母 つつがなしや 友がき 
  雨に風につけても 思いいづる故郷


 こころざしを 果たして いつの日にか 
  帰らん山は清き故郷 水は清き故郷


ふるさと但馬の五月の今日は、歌集の言葉や、唱歌の歌詞そのまんまです。

わが故郷但馬の里の、懐かしい川や山の五月の陽射しに映える姿です。



《青き山 わが故郷は 五月晴れ》 

今日は何の日・承久の変の日です

2014年05月14日 | ふるさとの話
(五月立夏のこのごろは、蛙(かわず)鳴く、蚯蚓(みみず)這い出て、タケノコ生える)


ただいま五月の立夏(5日~20日)は、七十二侯(しちじゅうにこう)で「蛙始鳴(かわずはじめてなく)・・・・蛙が鳴き始める」と、「蚯蚓出(みみずいずる)・・・・ミミズが地上に這い出る」と、「竹笋生(たけのこしょうず)・・・・竹の子が生えてくる」と続きます。
若葉青葉の立夏の季節です。

ところで、今日は何の日どんな日だったかなと、調べてみます。

旧暦ではありますが、5月14日は承久の変(じょうきゅうのへん)が起きた日なのです。
鎌倉時代の承久3年(1221年)と云いますから、今から793年前の今日(新暦に直しますと6月になりますが)ですね。

承久の変がどうしたんかいなという事ですが、ふるさと但馬の豊岡や国府や城崎には、とっても深いかかわりのあることなのですよ。

承久の変とは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げ、敗れた一大事件なのです。

鎌倉に武士の棟梁である源頼朝が力を付けて鎌倉幕府を開きます。
京都の公家政権と鎌倉の武家政権の二頭政治が続いていたのですが、後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕に立ち上がったのです。これが世に云う承久の変とも承久の乱とも、その日が5月14日というわけ、本日がその日です。

この乱の勝敗は鎌倉幕府の勝利、結果その後は幕府が優勢となり、朝廷の権力はほとんど無に等しくなり、幕府が皇位継承などに影響力を持つまでになっていったのです。

何で、承久の変がふるさと但馬の豊岡なんよという事ですね。

承久の変に敗れて、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡ヶ島へ、後鳥羽上皇の皇子の六条宮と冷泉宮は、それぞれ但馬国、備前国へは配流されてしまいます。
島流しってことです。

隠岐の島や佐渡ヶ島は本当の島流しですが、皇子は陸の孤島の但馬国、備前国ってわけです。
六条宮さんと云うお方が、京都からはるばる離れた、陸の孤島と云われた但馬の豊岡へ流されてしまいます。

六条宮さんは雅成親王(まさなるしんのう)と呼ばれ、豊岡の高屋というところに流されます。
なので、承久の変は豊岡と深いつながりがあるの、

国府はどうかって、
国府は、今の日高町松岡のばば焼きの話しにつながる雅成親王の妃の話し、

城崎はどうなんだって、
城崎は、そのお妃が松岡の地で蓼川(今の円山川)に入水自殺して、下流の城崎に流されて、それを祀った祠(ほこら)が城崎温泉の入口(小学校の裏山)の「若上臈(わかじょうろう)稲荷」という訳なのです。

上臈(じょうろう)とは、身分の高い女の人、貴婦人のこと。
円山川の海に出る直前に、城崎の川岸に流れ着いた身分の高い上臈の遺体が、松岡で入水したお妃と云う話です。

なので、793年前の今日起こった承久の変と、ふるさと但馬の豊岡・国府・城崎がとっても深い縁でつながっているというお話ですね。



《雅成の お妃さまは 蓼川へ》